引き手茶屋の甚五郎が店に来た。要件はいつもと同じ、客が陽炎を指名したという連絡だった。

「陽炎、支度しな。お客だよ」

 部屋でゆっくりしていると、たん! といやな音を立てながら襖が開いた。入ってきたのは遣手のお里だ。

「どちらさんでありんすか」

「玉屋の弥七殿だ。早くおしよ」

「……弥七?」

 陽炎が声を発したのはお里が部屋から出ていった後だった。陽炎は一人、思案した。

 弥七が来たのは三月ほど前だ。給料はいくらか知らないが、奉公人なら一(もんめ)から二、三匁ほどではないだろうか。花魁一人を買おうと思うと一両は必要だ。そうすると一年以上働かなければ店には来れない。一体どのように金を工面したのだろうか。

 中には借金をして女郎を買う男もいる。だが、弥七はそのような性格ではない。自分にぞっこんになっているというふうでもない。

 なんにしろ、これは好機だ。うまくいけば情報を聞き出せるかもしれない。

 陽炎は支度を済ませ、弥七の待つ座敷へ向かった。



 よく、花魁は初回では口を利かないなどと言われるが、そのようなことはない。もちろん気に入れば、の話だ。気に入らなければそもそも座敷に現れず延々と待たせることもあった。

 そのうち客が怒って廻し方に怒鳴るか、帰るか、泣く泣く一人で夜を明かすものもいる。

 弥七は座敷に座って居心地悪そうに酒を注がれていた。遊び慣れていないくせに通人を気取って吉原遊びする男の典型的なたとえのようだ。

「お待たせいたしんした」

 陽炎が横に付くと弥七は見てわかるほど顔を赤らめた。八千代も緊張したり気まずくなると酒を多く飲むらしいが、それより酷い。

「俺のことを覚えているのか?」

「もちろんでありんす。主さんのようなお人は一度見たら早々忘れるものじゃござりんせん」

 ────という女郎達がよく使う手練手管の一つだ。遊び慣れしていない弥七には効果的面だったようだ。

「この間は主さんとあまりお話出来んせんでしたから、今日は色々聞かせておくんなまし。さ、どうぞ」

 陽炎が酒を勧めると、弥七は盃を差し出した。

 これだけ酒を飲んでいる様子を見ると、金を持っていないわけではない。だが、弥七の給金のことを考えると払えるような額ではない。酒、内芸者、宴席料……それだけでもかなりの金額になる。

 弥七が臆する様子はない。やはり、何か隠している。

「陽炎、お前に馴染みが出来たと聞いたときゃ驚いたぜ。俺との夜のことなんて忘れちまったと思ったさ」

「わっちはそれほど薄情じゃありんせん」

「そいつはお前の間夫になったってえらい噂だ。俺なんか霞んじまうんじゃねえか」

「そんなでまかせ、信じないでおくれなんし。皆わっちが困ってるのを見て楽しんでるだけでありんす」

「じゃあ、あの噂は嘘だってのかい」

「……こんな苦界じゃ、わっちは所詮籠の中の鳥でありんす。けれど、好きな男ぐらいは自分で選びとうござりんす。金があろうと面がよかろうと、結局人は中身が一番でありんすよ」

「けどよ、俺みてえなしがない奉公人より偉いお武家さんや大店のせがれなんぞが来てるんだろう。そっちの方がいいんじゃねえのかい」

「わっちはお堅いお人は苦手でありんす。主さんのような気さくなお人の方がずっと楽しいでありんすよ」

 なんとか弥七に心を解かせて情報を聞き出さなければならない。だが、なにを聞けばいいだろうか。

 事件のことを知っているか。いや、金の出所を聞くべきか。いずれにしろ聞き出すためにはもっと弥七と話さなくては。

「本当はもっと早く会いに来たかったんだけどよ。俺も仕事が忙しくてな」

「この時期玉屋はお忙しいでありんしょう。主さん、無理をなさってるんじゃありんせんか」

「そうでもねぇよ。忙しいのは職人の連中だけだ。俺は材料なんかの手配をしてんのよ」

 要は雑用係ということらしい。陽炎はちらりと弥七の手を見た。綺麗に洗っているようだが、爪の中には黒いものが残っている。花火の材料は樟脳や鉄、木炭などを細かくしたもの────微粉が多い。そのため職人の手は真っ黒になるという。

 見たところ、本当に花火を作る《《お手伝い》》をしているだけのようだった。花火師の仕事は一家相伝と聞く。奉公人といえど、弥七が本格的に携わることはないのだろう。

 この時期、花火師達は大忙しだ。両国の花火は毎年大々的に行うし、楽しみにしているものも多い。期待を失うような真似はできないだろう。

「それでも、大変なお仕事だと思いんす。下手したら命の危険がござりんすから……」

「本当にまいったぜ。少し前だが、奉行所の連中が来てよう。俺が作ってんじゃねぇのに、あれこれ注意されちまった。まったく、困ったもんだぜ」

「・……まぁ、なにかあったんでありんすか?」

 陽炎は若干期待した。

「うちの仕事は火薬を使うからな。下手すりゃ火事になる。上も気ぃ使ってるんだろ」

 ────本当にそうだろうか。

 幕府が気を遣っているのは本当だろう。一昔前はあちこちで花火がされていたらしいが、庶民に玩具花火が流行したせいで火事が多発したため、花火を上げられる場所は大川の河岸と海岸のみと決められてしまった。だから花火師達に忠告がいってもおかしくはない。火事を起こせば重い罪となる。

 しかし、弥七はぼやと窃盗事件に多少なりとも関わっている可能性がある。このぐらいでは尻尾を見せないだろうが、弥七が確実にやっている確証が得られないにしても、金払いがいい理由は知る必要がある。それを知るためにはもっと親密な関係にならなければならない。

 ふと、我に帰る。八千代のために、なぜそこまでしばけれならない? 間夫の頼みならいざ知らず、ただの客の。しかも自分にかけらも惚れていない男のために突き通してきた自分の誇りや方針を変えるつもりか。情報を得たところで見返りなどない。八千代は自分のことを好きにならない。

 だが、それでも────。好意を持った男によく思われたい気持ちはあった。

 男嫌いの陽炎花魁と散々言われてきたのに、どうしてこんなことになったのか。理由は分からない。ただ、八千代の武士らしからぬ態度や、子供っぽい無邪気なところ、馬鹿みたいに真っ直ぐなところを好ましく思うようになった。男に馬鹿にされないようにと努力してきた自分のことを認めてくれた。だから邪険にできなかった。

「失礼いたします」襖の外から声が聞こえた。少し戸が開くと、廻し方の伝助が丁寧に頭を下げた。

「花魁、そろそろお支度を」

 伝助はにこやかに告げた。伝助は廻し方といって、客の相手をする二階の座敷の采配を任された者だ。宴席で客の世話をしたり折りを見て金を請求したりと、気働きのできる資質のある人間でなけれな務まらなかった。

「このお支度を」の意味はいくつかある。この後弥七と同衾するための支度か、次の客に移る合図か、それともこのまま宴席を楽しむか。全て花魁の陽炎に任されているが、突然じゃあ「おさらばえ」などというと客は怒るから、こうして声をかけることで抜けやすくしているのだ。

 陽炎は迷った。このまま相手をしていれば聞き出すことが出来るだろうか。しかし、弥七は思ったより口が硬い。二回の逢瀬では足りない。世間話を聞くなら容易いが、罪を供述させるためにはもう少し距離を縮める必要がある。

 ────一度、八千代様に確認した方がいいでありんすな。

 陽炎は一度弥七に頭を下げた。

「主さん、ではわっちは一度下がりんす」

「そんなこと言って、俺を振るつもりじゃねえだろうな?」

「野暮なこと聞かないおくんなまし。わっちの時間を一刻以上拘束できる男なぞそういやしんせん。明日には主さんの噂が吉原中で広まってるでありんすよ」

「へっ、うまいこと言って俺を宥めようってのかい」

「申し訳ありんせん。わっちとてここにいたいと思うておりんす。けれど花魁である以上、主さんだけを選ぶことは出来んせん。もしもう一度会いにきてくださるなら、精一杯お相手させて頂きとうござんす」

「本当かい。俺は信じちまうぞ」

「花魁は嘘はつきんせん」

 陽炎はもう一度頭を下げて部屋を出た。大した会話はしていないのに背中から汗が流れていた。

 弥七はまた来るだろうか。きっと来るはずだ。しかしその時自分は────。

 陽炎はそっと考えに蓋をした。次の座敷へ足を進めた。