十二代将軍徳川家慶の日光東照宮参拝を控え、江戸中がぴりぴりとしはじめた。

 今日まで、将軍の日光東照宮参拝は二代将軍の頃から行われてきた。それに従い、幕府もこの行事を決行した。しかし街の様子はいささか物々しい空気を醸し出していた。

 ただでさえ財政難の幕府が大金を投じて日光まで練り歩く。それに反感を抱くものは少なくない。そして更に、上からの数々のお達しに江戸の民はその日まで息を殺して生活することを強いられた。

 当日は大行列が江戸の街を歩くことになる。将軍様の御一行だ。

 ともなれば、騒ぎなど起きてはならない。暴れ馬、犬猫畜生、子供。いかなるものも飛び出さないように注意すること。通行の邪魔になりそうな物は一切置かぬこと。盗人が隠れそうな場所を作らぬこと。火事を起こさぬこと。

 とにかくあれこれおふれが出されて、皆困っていた。火事の元になるからと、天麩羅屋や蕎麦屋まで休業を強いられる始末だ。

 そんな時に、事件が起きた。玉屋を含む街の一部が火事で焼けたのだ。

 火元は玉屋の納屋だと言われていた。おおよそ燃えるものなどない場所であったため、付け火だろうと言われていたが、将軍社参の直前に起きたことだったため、罰は重いものとなった。

 玉屋は闕所(けっしょ)(財産・土地を没収される刑罰)、所払(ところばら)いとなった。刑罰として大変に重いものだ。

 陽炎はその噂を八千代からではなく、吉原に来る読売から聞いた。数日間は社参のせいで江戸の民も黙っていたが、それが終わるとあっという間に噂が広がった。

 花火師鍵屋から暖簾分けしたばかりの玉屋が早々にお取り潰しになったと聞いて、誰もが残念がっていた。玉屋の花火は江戸の民にとってなくてはならないものだったからだ。

 しかし陽炎はそのことよりも弥七の方が気になった。以前の登楼以来、弥七は現れていない。

 酔って眠りこけたことが恥ずかしいのか、それとも何かやましいことをしているのかは定かではない。

 だが、この事件は弥七が招いたものではないかと考えていた。

 弥七の態度を見る限り、駿河屋にただ使われているだけのような気もする。弥七自身はそれだけの謀りごとを考えるような頭を持ち合わせていなかった。

 あの事件で弥七はどうなったのだろうか。玉屋がお取り潰しになった今、弥七も解雇されているに違いない。