この日薫とイヴは、都市部のある建物を訪れていた。

 スタジオと書かれた部屋の扉を開けるなり、薫は目を瞑って俺は外にいると引き返した。

 スタジオ内に設置されたライトが眩しすぎたのか、薄暗い研究室に慣れきった薫の目は耐えきれなかったようだ。仕方なくイヴだけ中に入った。

 しばらくすると、扉越しにカシャカシャとカメラのシャッターを切る音が聞こえた。

 問題ないと安心すると、薫は廊下に置かれたソファに背中を預けた。薫の仕事は、ただ待つことだけだった。 
 
 ──アイツのいう通り、少しは外に出ないといけないな。

 ここは少なくともスタジオの中よりは暗い。普段から薄暗い場所で生活している薫にとって、カメラのフラッシュは虫眼鏡で太陽を見ているようなものだ。

 目は悪くない方だったが、あんなものを見た後は目の奥がチカチカしてしょうがないと、薫は何度も目を擦った。

 そのうち眠くなってソファでうとうとしていると、撮影を終えたイヴとカメラマンが中から出てきた。

「博士、今終わりました」

「ご苦労さん」

「立川博士、ご協力ありがとうございました。おかげでいい記事が書けると思います」

「いや、こちらこそどうも」

 薫は短く返答し、イヴを連れてスタジオを後にした。

 今日の仕事は、アンドロイド雑誌の特集に載せる写真の撮影だった。

 アンドロイド研究の第一人者となった薫にこうした仕事が舞い込むのは珍しいことではない。それはイヴも同じだ。

 薫は人前に出るのを面倒臭がるが、こうした仕事は積極的に引き受けていた。

 別に金のためではなかった。アンドロイドのおかげで莫大な財産を得た薫は、すでに働かなくても食べていけるだけの金を持っている。

 ただ、少しでもイヴが人間らしいことをすれば内側から変えていけるのではないか。

 そう思ったからこそ、イヴに人間と同じような生活をさせ、人間の心に触れる機会を与えた。

「博士? どうしたんですか?」

 ぼんやりしていた薫の顔を、イヴが覗き込んだ。その表情は心配しているように見える。

「ああ……」

「やっぱり疲れてるんですよ。だから付き添いはいいって言ったのに……」

「馬鹿。お前を一人で行かせられないだろ」

「もう、心配症ですね。早く帰りましょう。帰ったらちゃんと睡眠をとってくださいね?」

「わかったわかった」

「二回言った。嘘ですね」

「いいから、さっさと帰るぞ」

 普通にしていた薫だったが、自宅に着く数分前、突然車窓を開け、吐き気を訴えた。

 あれだけ室内にこもりっぱなしの昼夜逆転生活を送っていたのだ。体調を崩してもおかしくなかった。

 イヴは自宅に着くと手際よく動き、薫がベッドに入って十分程の間にお粥と薬を用意した。

 症状は軽い吐き気と熱のみだ。おそらく風邪の初期症状だろう。

 久しぶりの風邪を引いて気弱になっているのか、薫は駄々をこねてイヴにあれこれ注文をつけた。

「ほら、ちゃんと食べてください」

 イヴが口元にレンゲを持っていくと、薫はふいっと顔をそらしてしまう。

「……食欲ないんだよ」

「食べないと元気になりませんよ。水分もとってください」

「う……」

 お粥をサイドテーブルに置いて、イヴはミネラルウォーターが入ったペットボトルを差し出した。薫はそれを手に取るとゴクゴクと喉の奥に呑み込む。

「博士が風邪を引くなんて何年振りでしょう。確か五年前の三月四日に──」

「……いちいち覚えるな」

「アンドロイドですから、覚える気がなくても覚えていますよ」

 薫は半分ほど口をつけたミネラルウォーターをサイドテーブルに置いて、目を覆うように腕で隠した。

「他になにか欲しいものはありますか?」

「……別にない」

「今日くらいちゃんと寝てくださいね」

「俺は子供じゃない……お節介焼きめ」

「私は元ベビーシッターですから」

「……お前は家族だ。子守は、もう卒業しただろ」

「でもこの家にはまだ駄々っ子の博士が残ってますからね」

「ふん……」

 開発したアンドロイドが爆発的にヒットし、薫の両親は多忙になった。そのため薫は家の中でいつも一人だった。

 そんな息子を不憫に思った両親は、イヴに「薫のそばにいるように」とインプットした。

 幼馴染の岬も一緒に遊ぶことが多かったが、賢すぎる薫とイヴの遊びについていけず、大抵見ていることが多かった。

 イヴは小さい頃から薫の良き理解者として傍にいた。

「博士……しばらく研究は止めませんか?」

「なに、言ってるんだ……俺が止めたら、お前が……」

「もういいじゃないですか。アンドロイドに感情を持たせるなんて無理です。確かに成功すれば、これ程素晴らしいことはないでしょう。でも……」

「俺は、やらないといけないんだよ。お前を……完璧に、して……」

「博士が疲れてボロボロになっていくところはもう見たくないです。もっと自分のために生きてください」

「……俺は自分のためにやってるんだ」

「どうしてですか? お金も地位ももういらないじゃないですか。これ以上何が欲しいんです?」

「俺は、お前に……」

 愛されたい。薫はその言葉は声には出さなかった。叶わない願いだとわかっていた。

 イヴを与えられたその日から、薫にとってイヴは特別な存在だった。

 イヴの頭の中に「愛」を組み込めば、一体どんな風に動くのだろう。薫は何度そうしたいと思ったかわからない。
 
 だがそれでは意味がなかった。愛は理屈ではない。イヴ自身が感じなければ──。