出不精の薫は研究の集まりとイヴとの用事以外で外に出かけることは滅多とないが、毎月月末の日曜日だけは必ず決まった予定があった。

 その日は竜司と高遠の三人で集まり、食事しながら取り留めのない話をする、とイヴは聞かされていた。その日だけは唯一、イヴが同伴しなかった。

 毎月のそれのために薫は朝から出かけていた。

 今日は薫がいない分、イヴの仕事は少なかった。朝ごはんも作らないし、コーヒーも淹れなくて済む。その分家事が早く済んで、何もすることがなくなってしまったイヴは庭に出た。

 庭の木々はすっかり新芽が吹き、鮮やかなライムグリーン色の葉が涼しげに風に揺れている。

 イヴは花壇に近づき、そこに植えた花を眺めた。

 イヴは物を美しいと思う感性を持っていないが、人間がそれらを美しいと思うというデータから自然を大切にしていた。花壇に植えられた花は、薫に言われてイヴが種から育てたものだ。だからこそ余計に枯らしてはいけないとイヴは考えていた。

「今日は博士がいないから花壇の模様替えでもしようかな」

 イヴのひとり言に、もちろん花からの返事はない。そんな花の様子を見て、イヴはそれと過去の自分を重ねた。

 薫の両親が作った初期のイヴは会話が出来なかったため、薫と言葉のやりとりをしていない。それからしばらく後、薫によって言語機能が追加されたが、それまでの間、薫はさぞや詰まらない思いをしていたはずだ。

 イヴはカタコトにしか喋れなかった頃の自分を思い出して苦笑した。思えば、薫が花を育てることを指示したのは、自分に人間の気持ちを理解させるためなのだろう。

 イヴは花壇に咲いていた花にそっと顔を近付けた。ほんのりと甘い香りが漂っている。桃色に色づく花弁を指でなぞると、ふと、先日薫に抱きしめられたことを思い出した。

 イヴの頭は何をされたかしっかりと記憶していた。何ならもう一度頭の中で復元することも可能だ。

「博士の望むこと、か……」

 なぜ薫が自分を抱きしめたのか、イヴには理解出来なかった。

 それが人間同士の感情表現だということは知っている。以前街中で若い恋人たちがああして抱き合っている姿を見たことがあった。

 だが、なぜそうするのか分からない。人間の感情、行動パターンに関する知識は山ほど詰め込まれているはずなのに、それに関する知識だけが出てこなかった。

「博士はどうしてあんなことしたんだろう……」

 薫はいつか教えると言った。その時がくれば、あの切羽詰まったような切ない表情の意味を教えてもらえるのかもしれない。

 花壇に水をやろうとした所で、インターホンの音がわずかに聞こえた。

 まさか薫だろうか。イヴは慌てて土を払って玄関に向かった。一応身なりを整えて、扉を開ける。そこにいたのはイヴもよく知っている顔だった。

 岬優花はニッコリと笑って挨拶をした。

 岬の後ろには愛車である黒い車体のセダンが停まっている。ここまでドライブしに来たのだろうか。彼女がこの家に来たのはかなり久しぶりのことだった。

「こんにちは、岬さん」

「今日薫はいないのよね?」

 妙な質問だ、とイヴは思った。岬がイヴを目当てに訪ねてくることはほとんどない。

 逆に言えば、薫がいなければ来ないのだ。岬の質問は、まるで薫がいないと知っているかのような聞き方だった。

「そうなんです……せっかく来てくださったのにすみません」

「イヴさん、よかったら付き合ってくれないかしら。これから友人と買い物に行く予定だったんだけど、友達が用事で来れなくなってしまったの。女一人で行くのもアレでしょう?」

 イヴはなるほど、と納得した。

 だが、仕事が終わったとはいえ一人で勝手に遊びに出るのはあまりよろしくない。そんなことで薫は怒ったりしないだろうが、主人に断りなく家を出るのは気が引けた。

「私は……」

「家のことなら少しくらい平気よ。薫には私から連絡しておくわ。いや?」

 そこまで言われたらイヴも断れなかった。

「いえ……では、準備するので少しだけ待っていただけますか?」

「ええ」

 イヴは慌てて家の中に入り、自室のクローゼットに向かった。

 エプロンを脱いで、本を数えるようにハンガーを指で避けていく。いくつもあるその中の一着に目が留まった。

 この間薫が自分に買ってくれた淡いグリーンのワンピースだ。どこにでも着ていけるようなシンプルなデザインで、イヴはいつか薫と出かけたときに着ようと思っていた。

 イヴはそれを着て玄関へ向かった。玄関へ出るなり、岬はイヴのワンピースを見て眉をきゅっと上げた。

「それ、薫の見立て?」

「はい。よくわかりましたね」

「小さい頃からの付き合いだから」

 短く答え、岬は車に乗り込んだ。

 岬は都心の方向へ三十分くらい車を走らせた。家から一番近い街に入ると、車は大型ショッピングモールの駐車場に入った。

 いろんな店が入っていて便利なので、イヴもよく買い出しに行く場所だ。

 だが、イヴは意外に思っていた。ここは便利だが、どちらかといえば大衆向けの店で、岬のようなお嬢様が買い物をするところではない。今だって岬は頭のてっぺんから爪先までブランド物で固められていて、少し周囲から浮いていた。

「私がここに来るのはおかしいかしら?」

 イヴが見つめていたことに気付いたのか、岬は小首を傾げた。

「いいえ。でも意外でした」

「ここには買い物に来たわけじゃないわ。お茶しようと思ってたのよ」

 イヴは岬に案内されてある喫茶店に入った。テレビでもよく見る有名な店で、イヴも名前を覚えていたので、店の看板を見てあっと思った。

 ショッピングモール自体はファミリー向けだが、なるほどここなら小洒落ているし、岬が入っても浮くことはない。

 岬はダージリンを頼んだ。イヴがインテリアとして置かれている調度品を眺めていると良い店でしょう、と岬が言った。

「ええ、綺麗なお店ですね」

「ここ、よく来るのよ。薫とも昔学校帰りに何度か来たわ」

 へえ、と言いかけて、イヴは置かれたメニュー表をちらりと見た。コーヒーと書かれた項目の中に、豆の種類がいくつか書かれている。

「このお店はコーヒーの種類が豊富ですね」

「ええ」

「博士、キリマンジャロをよく飲んでいませんでしたか? 家でもあればかり飲んでいるんです」

「そう……ね」

 少しして、岬の注文したダージリンが来た。岬はそれにたっぷりのミルクと砂糖をいれると、ティースプーンでくるくるとかき回す。

「イヴさん、薫もずいぶん歳をとったと思わない?」

「いえ、博士はまだお若いと思いますよ」

「……まぁ、そうね。でも薫の歳ならもう結婚してもおかしくないわ」

 唐突に岬がそんなことを言い出したものだから、イヴは少し驚いていた。年齢の話をしたから、その延長で結婚の話題を出したのかもしれない。

「結婚? 博士がですか?」

「世間的にはね。まぁ薫は成功してるから早いってことはないでしょう? 経済力もあるし」

「そうかもしれませんね」

 なるほど、世間的な結婚の価値観はそうなのか、とイヴは納得した。

 薫の結婚について考えたことはなかったが、岬の言う通り薫の条件なら結婚しても問題はなさそうだ。

「薫、学生時代だってモテてたのに告白は全部断ってしまうし、結婚にもまったく興味がないみたいで……幼馴染としてすごく心配なのよ。アナタもそう思わない?」

「よく分かりません」

「分からない? どうして?」

「結婚は私には縁遠いものですから」

 そうね、と岬は口角を上げてカップを口に運んだ。

 正直、イヴは岬の言葉の意味が理解できなかった。今まで数え切れないほど薫を心配してきたが、結婚しようとしない薫を心配したことはない。

 一生結婚することがないであろう自分には、結婚しないことで薫が困るとは思えなかった。

「イヴさん、アナタはいつまで薫のそばで仕事するつもりなの?」

 イヴには岬が笑っているように見えた。単純に、仕事の期間のことを聞かれたのだと思った。

「特に契約はしていませんので、今のところ無期限です」

「薫がいつまでもアナタを雇っているとは思えないわ」

「でも博士は約束してくれました」

「え?」

「私を捨てないと」

「……薫が?」

 岬は渋い顔をした。

「イヴさん、アナタ仮にも女でしょう? もし薫が誰かと結婚したら女であるアナタは家にいられなくなるかもしれないのよ? 心配にならないの?」

「私は家政婦ですから」

「家政婦でも、家の中に別の女がいたら薫の奥さんになる人は嫌でしょうね」

 そうなのだろうか。イヴは疑問に思った。

 家政婦アンドロイドが家にいる家庭は少なくない。むしろ、一般家庭に広く普及していた。

 掃除も料理も子守もこなすアンドロイドは忙しい主婦の味方だと、テレビのコマーシャルでも宣伝している。もし嫌がる女性がいるとしたら、その人は家事好きなのだろう。

「どうしてですか?」

「アナタ、嫉妬をしたことがないの? ああ、そうよね。それはそうだわ」

 岬は一人で言って一人で納得している。

 イヴには嫉妬という感情がない。薫がイヴに組み込んだのは感情の基本となる喜怒哀楽だけだ。嫉妬はそれらを組み合わせたもっと複雑な感情だから、なくて当然だった。

「とにかく、アナタがしていたことを代わりにする人が来たらアナタは必要じゃなくなるの」

「でも、私は──」

「まだわからない? アナタは薫の足枷になってるのよ!」

 足枷という言葉を聞いて、ようやくイヴの表情が変わった。不安気な瞳で見るイヴに、岬は説得するように話を続けた。

「両親からのプレゼントだもの。薫がアナタに愛着を持ってるのはよくわかってるわ。でもいつまでもアナタにしがみ付いていたんじゃ薫は幸せになれない。アナタはアンドロイド、薫は人間。いくらアナタが万能でも、薫に与えられる幸せは限られてるわ」

 岬の重い溜息が聞こえた。

 イヴは今度こそしっかりと理解した。

「こんなことは言いたくないけど……アナタは薫のために作られたアンドロイドなんでしょう? 彼のためを思うのなら、家から出ていった方がいいわ」

 ──胸が痛い。イヴは思わず自分の胸を押さえた。だが、すぐ我にかえる。自分はアンドロイドなのだから、胸なんて痛むはずがない。一瞬、何かの不具合を疑った。

 岬はハンドバッグからスマートフォンを取り出し、中を確認するとイヴに告げた。

「ごめんなさい。今日約束してた友人が来れるようになったみたい。せっかく付いてきてくれたのに大した話もできなくてごめんなさいね」

 イヴはまともに返事を返せなかった。先ほどから感じていた違和感がまだ続いていて、それに意識を取られていた。