とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 美帆は安心していた。もうしばらくは津川に会うことはないだろうと。

 だが、津川は一週間と経たない内にやってきた。

「一体何をしに来たんですか。津川さん」

 呆れを通り越して情けなくなった。坂口の評価を聞いてもう少しまともな人物だと思ったが、やはりただの常識ハズレの失礼男だったようだ。

 というのも、今日津川の来社予定はなかった。つまり、突撃訪問してきたというわけだ。

 カウンター越しに美帆は津川を睨みつけた。相変わらずの嘘くさい笑み。思わずさぶいぼが立ちそうだ。

「杉野サンの顔見に来たんですよ」

「……警備員を呼びますよ」

「冗談ですよ。今日はたまたま近くに来たので寄っただけです」

「寄っただけって、ここは立ち飲み屋じゃ────」

 津川はカウンターの上に紙袋を置いた。『加賀屋』と書かれた紙袋だ。それを見た途端、美帆よりも先に横にいた沙織が反応した。

「『加賀屋』じゃないですか!」

 黄色い声を上げた沙織にすかさず津川が反応する。

「さすが、ご存知ですか」

「勿論です! 買うのに一時間は並ばないといけないと聞きますけど……」

「父がここの創業者と知り合いなもので。よかったら、休憩の時間にでもどうぞ。たくさんありますから皆さんで分けてください」

『加賀屋』老舗の和菓子屋だ。ネームバリューはあるが、普通に買えるほどお安いお値段でない上、製造数に限りがあるため店の前には長蛇の列ができる。自分用ではとてもじゃないが買えない、お客様用の菓子だ。

「ちょっと……!」

「ありがとうございます!」

 美帆は止めようとしたが、沙織は丁寧にお辞儀して紙袋を受け取ってしまった。

 ────何を企んでるの?

 しかし、睨んでも津川は「なにも?」とでも言わんばかりの顔で見つめ返してくるだけだ。

「お仕事のお邪魔をしてすみません。では、失礼します」

 周りを騙す気満々の笑みを浮かべ、津川は去った。本当に挨拶だけのために来たらしい。そんなわけないと思うが。

「ちょっと沙織。どうして受け取るの?」

 美帆は沙織を嗜めた。客からお菓子を受け取るのは日常茶飯事だが、《《あの》》津川から受け取るのだけは許せない。絶対に賄賂だ。

「あの人でしょ? 美帆がばったり出会った運命の王子様」

「全然王子様じゃないっ! よく見てよ! 腹黒そうな顔してるでしょ! 魔王よ!」

「そう? イケメンじゃない。背も高くてスタイルいいし、気遣いも出来て最高。これ、後でみんなで分けない?」

「お菓子に騙されないでよ! 絶対なんか企んでる!」

「企むって、何を?」

「何をって、それは……」

 言葉が返せない。そう思っていたものの、具体的に津川が何を企んでいるかなど、見当もつかなかった。

「考えすぎよ。っていうか、私あの人美帆のこと好きだと思う」

「はぁ!?」

「だって、どう考えてもそうじゃない。最初の何回かは偶然だったかもしれないけど、今日会いに来たのはそうだと思うよ?」

「まっさかぁ。あの人はチャラチャラしてるだけで全然そんな感じじゃないから。ないない、絶対にないよ」

 大体、あれが好きな相手にする態度だろうか。軽薄で不誠実で、付き合うとかそれ以前の問題だ。最初出会った時に言われた言葉は一生忘れないだろう。
< 20 / 158 >

この作品をシェア

pagetop