とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
第5話 社長令息は清掃員の仮面を被る
 関西を代表する大きな企業の一つ、『津川商事』。

 大阪府北区の好立地な場所に居を構える大きなビルは、入るものにとってはステータスで、眺めるものにとっては憧れだ。

 しかし、今からそのビルに入ろうとしている津川文也には関係のないことだった。憂鬱気分で自動ドアを潜り、自分の未来を憂いた。

 文也は津川家の次男坊として生まれた。

 大企業の息子だ。生活は裕福そのもので、金銭面で苦労したことは一度もない。

 ただ、家族仲はあまりよくなかった。

 生まれてから後継としてロボットのように勉強させられる兄と、会社のことばかりで常に眉を吊り上げている父。母親はのんびりした人だったが、ネジが一本抜けたような人で、そんな家庭の中でも自由に生きていた。

 無論、文也も後継者の候補として幼い頃から死ぬほど勉強させられた。

 だが、文也は会社に関わることを放棄するため、出来るだけ「バカ」を装うようにした。

 そうすれば父も兄も見放して自由にさせてくれると思っていたし、会社のことに関わらずに済むと思ったのだ。

 思惑通り、文也は早々に出来損ないの烙印を押され、期待されなくなった。

 それからは文字通り自由な生活が始まった。

 文也は大学を出た後上京し、自身で通信系の会社を立ち上げた。業績はそこそこだったが、一人で生活していく分には十分だった。家の力を借りず、自分の力で稼げたことが嬉しかった。

 それから仕事に打ち込み、仕事がある程度軌道に乗ってきた時だった。

 突然、今まで連絡一つしてこなかった兄から電話が来た。

「父さんと会社のことで話がある」

 父はまだ引退するような年齢ではない。文也は嫌な予感がした。ここに来て、今更自分を会社に戻す気ではないだろうか。そうなったら今までの苦労が水の泡だ。

 いくら実家のことが嫌でも、呼び出しに応じないわけにはいかなかった。

 しかしいざこうして会社に来てみると、体が重たくなるような重圧を感じた。

 幼い頃から会社には何度も来ていたが、楽しかった記憶はない。周りからは可愛がってもらえたが、本音はなんとなく分かっていた。
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