とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
 その数日後、杉野からメッセージが送られてきた。仕事終わりに一緒にラーメンを食べに行きませんかという内容だった。

 文也はもちろんオーケーした。先延ばしにする理由などない。出来るだけ早く杉野との関係を構築しなければ計画は進まないのだから。

 仕事が終わったあと、会社のロビーで杉野を待つことにした。受付は近いが、あんまり杉野が見える位置で待っているとアピールしているようなので、出来るだけ控えめな位置を選んだ。

 文也は仕事中社内をあちこち回らなければならないため、杉野がいるロビーに滞在する時間は全体のわずかだ。それでも広いロビーだから、掃除にかける時間は他の階よりも多い。

 あれから改めて杉野を観察したが、杉野の印象はやはり思っていたものと違った。それは悪い方ではない。

 杉野は仕事に対し真面目な人物だ。おそらく情報を聞き出すのは簡単なことではない。

 だが、一歩踏み込んだ関係になればその可能性も変わってくる。

 ああいう人間は恋慕の情を利用するのが一番手っ取り早い。警戒心は強いだろうが、踏み込んでしまえばこっちのものだ。

 終業のチャイムが鳴ると、奥のエレベーターから徐々に社員達が出てき始めた。杉野も仕事が終わったのか、カウンターから出て着替えに行くようだった。

 ふと、杉野と目が合った。杉野は驚いた様子で文也の方に駆け寄ってきた。

「滝川さん……! すみません。もしかしてここで待ってたんですか?」

「はい。時間が余ってしまったので」

「ごめんなさい。すぐに着替えてきますね」

「ゆっくりで大丈夫ですよ」

「ありがとうございます。ラーメン、楽しみですね」

 杉野はニコニコしながら軽くお辞儀をして背を向けた。その笑みを見る限り、文也の企みになどカケラも気づいていないようだった。

 ────呑気な女やなぁ。スパイと飯食いに行くってのに……って、俺もか。

 杉野と一緒にいることを楽しんでいないと言ったら嘘だ。杉野は話していて楽しいし、気楽だ。

 津川文也として話すよりも、滝川文太として話すから、かもしれない。

 もしこれが津川文也としてだったら、杉野もきっと辛辣な態度になっただろう。それでも媚を売られるよりはマシだが、あんな失敗で嫌われてしまったと思うと後悔しかない。

 もし出会いが最悪でなければ、杉野は自分とどう接しただろう。やはり他の人間のように目の色を変えただろうか。それとも普通に接しただろうか。

 津川文也と一緒にラーメンを食べに行くことは多分、ない。杉野は仕事に真面目な女性だ。取引先の男と一対一で食事なんて、しないだろう。

 皮肉なものだ。本当の自分は受け入れてもらえないのに嘘の自分は受け入れてもらえるなんて。
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