とある企業の恋愛事情 -受付嬢と清掃員の場合-
第10話 二つに分かれた恋心
 津川を誘ったのはただの思いつきだ。意味なんてない。

 けれど美帆はその時のことを思い出して何度も恥ずかしさを覚えた。大それたことをしてしまった。穴があったら入りたい。

 映画に行った時からずっと津川のことを考えていた。津川が笑っていた顔も、泣いていた顔も、拗ねていた顔も、やけに鮮明に頭に残っている。

 そして自分の中にある感情は以前のような「真っ赤なもの」ではない。三十路の自分に不釣り合いな、甘酸っぱいものだ。

 しかし、私情を仕事に持ち込んではならない。いや、既に持ち込んでいるが、これ以上津川に振り回されてはならない。

 あの時、津川を見て放って置けなくなったことは事実だ。あまりにも無理をしているように見えたのでつい気になった。

 だが、受付嬢が一人の顧客を贔屓するなんてあってはならないことだ。それこそ自分の噂が本当のことになってしまう。

 にもかかわらず────。

「美帆、今日うち来る? お赤飯炊くよ?」

 更衣室で会うなり、沙織はやけに真剣(マジ)な瞳で切り出した。

「……誰から聞いたの? 詩音ちゃん?」

「さあ? 私が聞いたのは美帆が津川さんと何かあったてことだけ。内容は知らない。けど、大体わかるよ」

「ご想像のところ悪いけど、お赤飯なんて炊く必要ないから」

「何もなかったの? キスとかされなかった? 既成事実は?」

「なっ……何考えてるのよ! 会社でそんなことするわけなじゃないっ」

「なぁんだ。つまんないの」

 何をがっかりしているのだろう。そもそも、津川とはそんな間柄ではない。

 だがこの調子では受付嬢全体がそう認識しているのではないだろうか。ただでさえ噂好きの彼女達のことだ。暇を持て余してあれこれ尾鰭をつけて触れ回るだろう。────同じ部署内で。

「悪いけど、みんなの期待には添えません。津川さんは取引先の社長。受付嬢が手を出していい相手じゃない」

「何そんな堅いこと言ってるの。社員が取引先の社長と付き合っちゃいけない規則でもあるの?」

「これ以上変な噂言われたくないの。それに、万が一付き合って別れたらどうするの? 会社の不利益になるようなことして降格させられたら? 絶対無理!」

「そんな真剣にならなくても。取引先と付き合ってる子なんて珍しくないって。っていうか、付き合うこと考えてたの?」

「ものの例え。とにかく、何もなかったから」

 本当はそんなことないが、沙織に言ったらお祭り騒ぎになるのでやめた。

 しかし、津川も津川だが、美帆は滝川のことも気になっていた。

 映画の日以来、滝川から連絡がない。一応フォローのメッセージは入れておいたが、忙しいのだろうか。今まで返事が返ってこないことがなかったので気になった。

 それに会社であまり会えなくなったので余計にだ。滝川が清掃を任されているのはこの藤宮コーポレーションだけらしいが、状況が変われば他のビルに回されることだってあるはずだ。

 気になったが連絡は出来なかった。何度も連絡するとうっとおしがられそうだし、忙しいならなおのことそっとしておいた方がいいように思えた。
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