穏やかな朝だった。

 このところ戦もなく、国が穏やかだからだろうか。朱緋にとっては稼ぎがなくなるので死活問題だが、たまにはこうのんびりするのも悪くない。

 階下の沙羅は相変わらず静かだが、時折朱緋の言った通り絵を描いているようだった。

 なにを描いているのかまでは知らないが、少し彼女と自分の憂いを紛らわすことが出来たのならそれでいい。

 不意に、足音が近づいてくると、失礼いたします、と声がして襖が開いた。入って来たのはどうやら小間使いらしい。 

「沙羅様、北の方様からご伝言を言付かりました」

「何用ですか?」

「本日鶴の間で茶会を致しますので、是非にと」

「本日、ですか?」

「はい、そのように言付かっております」

 沙羅は言葉に詰まっているようだった。

 北の方──大名の正室から突然呼ばれたのだ。驚くのも無理はない。

 側室である沙羅からすれば、正室の北の方は非常に相性のよくない女性だと言える。実際、多くの正室は側室に対しいい印象を抱いていないし、それはここでも同じはずだ。

 茶会を開くなど前から分かっていたものを、いきなり当日に呼びつけるなど無礼極まりない。

 それも、正室だからこそ許されることで、沙羅からしてみれば侮辱されているのと同じだった。

 当然、なんの用意もしていなかったのだろう。沙羅は困っていた。

「申し訳ありませんが、気分が優れぬのです……御方様には申し訳ありませんが、私は……」

「いかような理由があってもお連れせよとのことです。来ていただかねば、私が責に問われます」

 小間使いにそう言われて、沙羅は諦めたようだ。支度を始めた。

 沙羅が行くならばと、朱緋もこっそりあとを付いて行くことにした。
 
 鶴の間は城の奥御殿の中にある部屋で、来客をもてなすために使われることが主だ。開け放された襖からは中庭が一望できる。茶会にはもってこいの場所だろう。 

 そこには正室と、正室の従者たちと、招待されてきた家臣の奥方達が並んでいた。

 後から遅れて来た沙羅は頭を下げ、一番下座に着いた。

 武家の奥方達とはいえ、流石にこんな場所で刀や薙刀を持ち出したりはしないだろう。朱緋は天井裏で彼女達の会話に聞き耳を立てた。

「皆様お揃いで、本日はよう来てくれはりました」

 上座に着いた正室が今回の茶会についてあれやこれやと話している。

 京訛りの正室は茶の湯に詳しいのだろう。北の方は久家の出で、そのような作法は武家より詳しいに違いない。雑学をそこにいた者達に話しては、皆うんうんと頷いていた。

 突然誘われて来た沙羅はどうしたものかと顔色が優れぬようだった。

 やがて皆それぞれが自身の茶碗を出し、これはどこそこの作で、楽がどうだ絵柄がどうだと話している。姫は自分の茶碗がないのか、途方に暮れていた。

「沙羅様はお茶碗があらへんのどっしゃろか。困りましたなあ」

 それを目敏く見つけた北の方は、気の毒そうに言った。だが、その目はとても心配しているようには見えない。

「御方様、手前の物が余分にございますのでそちらを使って頂きましょう」

「ああ、ほんならそうしておくれやす。よかったどすな沙羅さん。お礼を言うとくれやっしゃ」

「かたじけのうございます……」

 恭しく頭を下げた沙羅の前に出されたのは、一番格の低いものだった。

 茶の湯の知識もない沙羅にそのことが分かるはずもないが、その場にいた者達がせせら笑うのを聞いて、それがどういう意味を持つのか空気で察していたようだ。沙羅の顔色は悪い。

 朱緋はそれを聞いて、女の嫉妬とはこうも醜いものかと嫌悪せずにはいられなかった。

 沙羅が困っているのは誰が見ても分かることなのに、誰も何もしようとしない。いや、むしろ彼女を困らせて楽しんでいる。

 沙羅は周りを見て何とかしようとしているふうだったが、誰かに聞こうものなら相手の思う壺だ。

 案の定、作法を知らない沙羅に正室は小馬鹿にしたような嘲笑の視線を向けた。

「まあ、沙羅さんはお茶の作法も知らへんの?」

「申し訳……ございません」

「奥方様、仕方ございません。沙羅様は最近来たばかりで武家の作法などご存知ないのでしょう」

 ねちねちと嫌味を言われ、沙羅はその美しい顔を伏せた。

 道理で沙羅がここに来たがらないわけだ。沙羅は若く、この中で一番新参なのだろう。それゆえ、周りにいる奥方達は沙羅を見下しているのだ。

 正室はもうそこそこ歳をとっていて、加えて沙羅が美しいものだから宗則の寵愛が彼女に移るのも無理はない。

 正室からしてみれば、沙羅の存在は相当面白くないのだろう。彼女に後継の子供がいないから尚更だ。

 もしこれで沙羅に子供が出来てしまえば立場が逆転しかねない。だから彼女は沙羅を虐め抜いて、ここから追い出したいのだ。

 朱緋は他人に興味はなかったが、見ていて気の毒になるほど沙羅が哀れだった。

 友の一人もおらず、この広い城で一人きりだ。こうして茶の湯に呼ばれれば除け者にされ、白い目で見られ、彼女が一人で部屋に籠るのも納得出来る。

 ようやく長い催しが終わって、沙羅は逃げるようにその場を去った。

 沙羅は酷く気分が悪そうで、よろよろしながら部屋へと戻る。

 沙羅が畳に伏して泣いているように思えたので、さすがの朱緋も彼女に声を掛けにいった。

「おい……大丈夫かよ」 

「平気……です。少し休めば……よくなります……」

「嘘つけ……真っ青じゃねえか。今人呼んで来てやっから──」

「やめてください……っ」

 沙羅は突然朱緋の黒い装束を掴み、苦しそうな顔を上げた。

「お願いですから……誰も呼ばないでください」

「……なんでだ。そんなに肩身が狭いのか? お前も一応大名の側室なんだろ。それなら堂々としてりゃあいいじゃねえか」

「私は……っ」

 沙羅が咳き込んで胸を押さえたので、朱緋は仕方ないと白湯を持って来て彼女の背中をさすった。

 沙羅は本当に具合が悪いのか、顔色は優れず断続的に咳を繰り返している。

 しばらくそうして彼女が落ち着いたところで、朱緋は彼女の体を横に寝かせた。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」

「薬師でも呼ぶか。医者が要りそうなら頼んで来てやる」

「いいえ……よいのです。ご心配をおかけしました」

 顔色は少しましになったようだが、沙羅の顔色は悪いままだ。

 朱緋は少しの間彼女について看ていたが、沙羅は平気だと嘘をついて無理に笑おうとする。

 この姫は朱緋が描いていたものとは全く真逆の、贅沢や支配などとは無縁の場所にいるのではないか。

 美しい顔を曇らせた沙羅を見て、そんなことを考えていた。