夏もいよいよ本格的になってきた。

 外からはみんみんと蝉の声が聞こえ、少々煩く感じるくらいだ。

 近頃は沙羅も暑いのか、障子を開けて過ごしていた。

 相変わらず彼女は部屋の中で過ごしていて、絵を描いてはそれを朱緋に見せた。ここ最近で上達したのか、沙羅は嬉しそうだ。

 だが、時たま以前のように胸を押さえて苦しそうにする時があって、朱緋が医者を呼ぼうとしても彼女はそれを止める。すぐに治るから心配するなと言って聞かないのだ。

 沙羅がそんな状態だから、朱緋も気掛かりでなかなか離れられなかった。

「朱緋様は暑くないのですか?」

 さすがに夏用の衣に変えたものの、朱緋だって暑かった。

 だがそこは忍だ。暑いなんて言っていたら仕事が出来ない。特に天井裏なんて最悪だったが、沙羅は気遣って出てくるように言った。

 好意に甘えて、朱緋は蒸し風呂のような天井から出た。それだけで息が出来るぐらい空気が違った。

「暑いに決まってるだろ。夏の天井は釜茹での刑と同じぐらい酷いんだ」

「打ち水でもすれば少しは違うのでしょうけど……こちらは西側ですから、余計に暑いのやもしれませんね」

「お前は暑くねえのかよ」

「暑いとは思いますが、どうにもなりませんから……」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 しかしこの暑さはどうにかならないものか。朱緋はしばらく考えた後、沙羅に提案した。

「たまには外にでも出るか」

「え? 暑いのにですか?」

「だから、涼しいところに行くんじゃねえか」

「一体どこへ……それに、私は一人で勝手には出歩けません。城の外となると、共を付けずになど殿もお許しにならないと思います……」

「だから俺がいるんじゃねえか」

「朱緋様が? 付いて来てくださるのですか?」

「俺が案内するんだ。交渉してやるから待っとけ」

「は、はい……」

 朱緋が部屋から出てしばらく経ったあと、朱緋は部屋へ戻って来てニヤリと笑った。

「殿は……」

「許可は得た。支度しろ」

「は……はい、しばしお待ちください」
 
 あまり目立つ格好はするなと朱緋が言ったので、沙羅はなるべく地味な装いを選んだようだ。

 輿(こし)を使わずに行くので、軽装で動きやすいほうがいいだろう。

 朱緋は城の裏口から沙羅を連れて外へと出た。

「よく殿がお許しになりましたね。一体どう説得なさったのですか……?」

「俺は別になにも言ってねえよ。ただ、お前が涼しい場所に行きたいって言ってるから護衛するって言っただけだ」

「それだけで殿がお許しになったなんて……信じられません」

「俺は特別なんだよ」

 沙羅は不思議そうにしていたが、朱緋にとっては当たり前のことだ。

 側室といえど沙羅も立派な姫だ。普通なら護衛を何人もつけて輿に担がれて行くのに、それを朱緋だけでやるのだ。大名に信頼されていなければ出来ない芸当だ。むしろ朱緋だからそこ出来る芸当なのだ。

 二人はしばらく歩いて城下を出た。

 初めて歩く道は慣れないのか足元は覚束ないが、見る景色がいつもと違って沙羅はそれを楽しんでいるようだ。

 外にいるからだろうか、蝉の声が心地よく聞こえる。

 山の中に入り獣道を通って奥へと進む。

 朱緋がもうじきに着くと言ってから少しして、山間を流れる川に辿り着いた。

 拓けた場所にある川は大きく、木陰にあるからかほとんど暑さを感じなかった。

「ここは……」

「俺が子供の頃たまに来てた川だ。人は来ねえから安心しろ」

「ここは心地よいですね。朱緋様……ありがとうございます」

「なんだ、せっかく川に来てなにもしねえつもりか」

「え?」

 朱緋が履物を脱いで躊躇なく川へと入った。沙羅は驚いているが、川は見た目ほど深くない。水は脛ぐらいまでしかなかった。

「朱緋様……危のうございますよ」

「この川は見た目ほど深くねえんだよ。いいから来てみろ」

 朱緋に言われて沙羅も足を水に浸けた。少しずつ歩いて、朱緋がいる川の中ほどまで歩いた。

「……意外に、来れるものなのですね」

「部屋の中で閉じこもってたら鈍っちまうからな」

「朱緋様はこのような鍛錬をしてらっしゃったのですか?」

「たまにな。最近は忙しくてここに来る暇もなかったが……お前のおかげでいい口実になった」

「お役に立てたならよかったです」

 川岸に戻ろうと方向を変えて、足を踏み出した。

 だが、沙羅は苔を踏んだのか、ずるりと体を傾けて勢いよく前のめりに倒れそうになる。

 すかさず朱緋がその手を掴んで引き上げようとしたが、自身も水面下の苔に足を取られてしまい、身体はぐらりと傾いた。

「危ね……っ」

 ざぶんと飛沫を上げて身体は川の中へ落ちた。

 朱緋が体勢を変えたため沙羅の身体は朱緋の上に乗っているが、ほとんど水に濡れてしまっていた。朱緋も同様だ。

 尻餅をつくような形で川に落ちた朱緋は、まさかの状況に思わず固まってしまった。

「も……っ申し訳ありません! 朱緋様……お怪我は……っ」

「……お前は」

「私は平気です。あなたが……庇ってくださったから」

「無事ならいい」

 朱緋に引っ張られて沙羅は立ち上がったが、二人とも見事にずぶ濡れだった。

 これでは二進も三進もいかないととりあえず川岸へ戻ったが、そうすぐに乾くわけもない。

「まあ、天気もいいから放っておけば乾くだろ」

「申し訳ありません……私の不注意で朱緋様まで濡れてしまって……」

「川に来たんだからこれぐらい想定の範囲だ。別に構わねえ」

 岩場に腰を下ろした朱緋は着物の端を絞ったが、たかだが知れている。確かに天気は良かったから乾くだろうが、それには少し時間がかかりそうだった。

 沙羅は髪まで濡れていて、なんだかいつもと雰囲気が違うので戸惑ってしまう。

 特に沙羅は軽装で来ていたから、濡れた着物が透けて朱緋は思わず目を逸らした。濡れている髪といい、それがどことなく色香を放っているようで意識してしまう。

「……寒くねえかよ」

「平気です……ここは木陰ですが日も当たりますから……」

 沙羅も目のやり場に困っているのか、視線を逸らしたままだ。どことなくお互いのことが見れなくて、二人は困った。

 涼しいはずなのに顔が火照っていて、ちらりと視線を向けると濡れた互いが見えてまた視線を逸らした。

「……沙羅の木はなかった」

「え?」

「この辺りには、ねえんだとよ」

「そうですか……」

 気を紛らわそうと別の話題を持ち出した。沙羅は少し残念そうだった。

 朱緋はふと、植木屋に言われたことを思い出した。

 異国の地にあるというその木を、どうして日の本で暮らす沙羅が知っていたのか────。

「沙羅、お前は……」

 どうしてか、その先を聞くのが何となく躊躇われた。

 沙羅は首を傾げていて、その先の言葉を待っていた。

 正直に聞いてよいものか。そもそも、忍の自分には沙羅の素性など関係ない話だ。

 報酬さえもらえればいいと思っていたのに、どうして彼女にここまで関わってしまったのだろう。

 これが民が言う、男を拐かす力なのか────馬鹿な。

「朱緋様……?」

「ああ、いや……見つけられなくて悪かったな」

「よいのです。私よりもあなたに見せたかったのですから」

「そんなに綺麗な花なのか」

「私の一番好きな花なのです。雨が降ると花弁が透けるようで、咲いて少しすると、花ごと木から落ちて……そこは椿に似ているかもしれませんね」

「生きてりゃいつかは見れるかもな」

「……ええ」

 木陰で揺れる日差しの中、鳥の鳴き声が木霊した。

 朱緋は益々沙羅が分からなくなって、そして彼女に深くのめり込んでいた。

 忍として、彼女は護るべき対象であり、契約の内容にすぎない。それなのにどうしてこうも沙羅に深入りしてしまうのだろう。

 濡れた肩が細くて、思わず抱きしめてしまいたくなった。

 その透けた肌が見えなくなるまでの時間が、とてつもなく長く感じられた。