後日、その一件が玉緒の耳に入り、和紗はしこたま怒られた。契約をとって来たことは褒められたが、プラマイゼロだ。独り立ちはまだまだ先ね、と呆れられた。しかし、言い訳もできなかった。

 とにかくあの一件で和紗はいろいろなことを学んだ。仕事のことだけではない。今まで見えていなかった会社の内情も、見ようとしたわけでもないのに見えてしまった。

 それはどちらかと言えば知らない方が良かったことかもしれない。今までいい人だと思っていた人たちが「悪い人」に見え、逆にそうでなかった人が「いい人」に見えるようになった。

 特に、白鳥の印象はガラッと変わった。たいして知ったわけでも仲良くなったわけでもないのに、好意的な気持ちが芽生えた。



 終業後のことだった。和紗が会社から出たところで、帰宅中の白鳥を見かけた。今日は残業しないようだ。和紗は後ろから声をかけようとしたが、馴れ馴れしいだろうか、と踏みとどまった。彼女からすれば、自分は残業中に仕事を押し付けて来た迷惑な後輩だ。ひょっとしたら、あのことを怒っているかもしれない。

 だが、鞄の中に入れっぱなしにしていた「お菓子」の存在を思い出す。以前、彼女にお礼を渡そうと思って買ったものだ。あれから時間が経ったが、まだ鞄の中にいれっぱなしにしていた。いや、正確には忘れていた。

 今後のこともあるし、改めて、彼女にお礼を言おう。一緒に仕事をしていくなら、事務局の人間に嫌われているのはまずい。

「白鳥さん」

 和紗は思い切って声を掛けた。白鳥は驚いた様子で振り返った。

 だが、その様子はとても奇妙だった。まるで、怯えるような仕草だった。一瞬、変だな、と思ったものの、気にしない事にした。突然声を掛けたことで驚いているのだろう。

「……なんでしょうか」

「あの、先日はありがとうございました」

「あ、いえ……そのことなら、もう大丈夫です」

「実は……」

 和紗は鞄の中に入れていた菓子を取り出そうとした。しかし、いざ取り出してみると菓子が入った小さな箱はカバンに押しつぶされて角が歪んでいた。入れっぱなしにしていたからだろう。

「あ────」

「どうしました?」

「あ、その……実は、先日のお礼にと思って白鳥さんに買ったんですけど、なかなか渡すタイミングがなくて入れたままにしていたら、こう……」

 和紗は角が潰れた菓子を鞄の中からそろりと取り出した。すると、先ほどまで硬い顔をしていた白鳥がクスッと笑った。しかし、すぐに笑いを治めた。

「す、すみません」

「いや……こちらこそ、本当はちゃんとしたのを渡そうと思ったんです」

「気を使わせてしまったんですね。私のことは、もう気にしないでください。あなたのおかげで、あの話は治まりました」

「僕のせいで怒られることになったのに……あ、それならご飯おごります。これじゃあちょっと失礼ですし」

 和紗は角が潰れた菓子を鞄の中にしまい、提案した。白鳥を食事に誘ったことに深い意味はない。ただ、ちょっといろいろ話してみたくなったのだ。彼女は年上だが堅苦しいタイプではないし、喋りやすい。仲良くなれそうだ、と思っていた。

「あ……いえ、その……食事は、結構です。私、アレルギーとか色々あるので」

「え?」

「それに、私なんかと食事しても楽しくないと思います。この間のことは……本当に気にしないでください。じゃあ」

 白鳥は鞄の紐を握り直すとそそくさと行ってしまった。和紗はその様子をぽかんと眺めた。

 納得もしたが妙な疑問が湧いた。

 いきなり男に食事に誘われて驚いたり嫌な気持ちになる人だっているだろう。断られても仕方ない。

 だが、妙だ。彼女はいつも、どこか自分を卑下していて、自信がなさそうに見える。他人との間に壁を作って、一定以上近づかないようにしているようだ。しかし、それはなぜだ? 仕事でミスをしたからなのか。

 断られて残念な気持ちがないわけではない。だが、それ以上に彼女に対する興味が湧いた。

 白鳥は他の人間とどこか違う。なんだか普通ではない。それがどうしようもなく自分を惹きつけるのだ。