和紗は会議に集中しているフリをしながら、頭の中ではずっと白鳥のことを考えていた。頭から離れない、といった方が近いかもしれない。白鳥の声。そして表情。それは自分が知っている白鳥ではなかった。まるで別人。そう、白鳥の姿をしたなにかだ。

「では、各自企画書を持って来週の──」

 和紗は意識を戻し、慌ててホワイトボードを見た。すっかり集中力を奪われていたようだ。ホワイトボードに書かれたことをすぐにメモし、資料を持って会議室を後にした。

「あれ」を見たせいで仕事が手につかない。まるでホラー映画のワンシーンを体感しているようだった。こんなこと、誰に言っても信じてもらえないだろう。そのせいで余計に消化されず、頭の中に白鳥に姿が居座り続けている。

 彼女は、どうしているだろうか。ふと気になって、和紗は足の向きを変えた。

 向かった先は事務局だ。事務局の雰囲気はいつもと変わらなかった。和紗がいる営業部よりも静かで、みな淡々とパソコンに向かっている。その中には、あの時白鳥に糾弾されていた片桐もいた。彼女はあの後どうしたのだろう。白鳥にあんなふうに言われて驚かなかったのだろうか。

 ふと、片桐が顔を上げた。和紗と目が合うと、片桐はぎょっとして顔を青ざめさせた。まるで、嫌なものでも見たような顔だ。

「あ────」

 和紗は口を開こうとした。目が合って、さすがに声を掛けないわけにはいかない、と思った。だが、片桐はそうではなかった。急にバタバタと動き始め、用事でも思い出したかのように事務局の隅っこに行ってしまった。いや、避けられているのだろうか。自分は一度気まずい現場を見た。もしかしてまだそれを気にしているのかもしれない。

「あの、何か御用ですか?」

 別の事務員に話し掛けられ、和紗はどうしようか迷った。用事という用事はないが、こんなところでじろじろ見ているのはおかしい。

「白鳥さんはいますか。以前出していただいた注文請書のことでちょっと──」

 我ながらうまい言い訳だ。和紗は自分に呆れた。好奇心でこんなところまで来ておいて、簡単に嘘をつく。いつか自分は詐欺師になるかもしれない。

 事務員は少し驚き、「白鳥さんですか?」と聞き返した。だが和紗の返答を待たず、白鳥に声を掛けに行った。

 ほどなくして白鳥はやってきた。しかし、その様子は先日とはどうも違った。

「あ、あの。書類に何か不備でもありましたか……?」

 この白鳥は「この間の白鳥」ではない。和紗は直感的にそう思った。今の白鳥は「いつもの白鳥」だ。自分がよく知っている、あの自信なさげでオドオドした、小動物のような女性。

 だが、先日の彼女は違う。彼女は、あの時自分に笑みを向けた。それも純粋なものではない、まるで相手に喧嘩を売るような笑みだ。あの時彼女はなぜ、あんなことをしたのだろう。

「……一週間ぐらい前、資料室の前で会いましたよね」

「え?」

 白鳥はキョトンとした顔をした。忘れているのだろうか。一週間前だ。いろいろな人間と会っていれば自分とのことなど大したことではないのかもしれないが、それでもかなりショッキングな出来事の後のことだ。彼女だって、資料室で片桐を罵ったことぐらい覚えているはずだ。

「なぜあんなことをしたんですか」

 再確認するように尋ねると、今度は白鳥の態度が激変した。彼女の顔色は青ざめ、目に見えるほど体を震わせ始めた。それはまるで、恐怖するものに相対した時の動物そのものだった。

「白鳥さん? 大丈夫ですか」

 白鳥はその瞳を和紗の方に向けた。怯えている。そんな表情だ。彼女は以前もこんな顔をしたことがあった。

「ちょっとお話ししたいので、いいですか」

 和紗が伺うと、白鳥は観念したかのように小さく俯いた。

 事務局は人が多い。できるだけ人目につかない方がいいだろう。和紗は手近にあった会議室に入ることにした。入り口の札を「使用中」にし、中へと入る。今はどの部屋も誰も使っていないのか静かそのものだ。

 白鳥はおずおずと会議室に足を踏み入れた。まだ態度は怯えたままだ。

「お忙しいのにすみません。ちょっと尋ねたいことがあったんです」

「な、何か……不都合なことがあったのなら謝ります。申し訳ありません」

「そうじゃないんです。一週間前、資料室前で会った時のこと覚えていますか」

「い、いえ……すみません」

「片桐さんとお話しされていましたよね」

 これを話すのは賭けに近かった。二人の争いを盗み聞きしたことになってしまうから、話すつもりはなかった。だが、彼女がこの様子なら尋ねても問題ないだろうと思った。自分とのことを忘れていても、さすがに片桐とのことは覚えているだろう。

「え……?」

 しかし、白鳥の反応は予想したものとは違った。彼女は首を傾げ、まるで心当たりがなさそうな顔をしていた。

「お二人で話していましたよね。すみません、外から聞こえていたんです」

「え、話って……あの、すみません。あまり覚えていなくて……」

 覚えていない? 和紗は思わず声に出そうになった。そんなことがあるだろうか。彼女はあれだけ盛大に片桐を罵っていたのだ。毎日あんな出来事が起こっていれば忘れても仕方ないが、白鳥の生活の中であんなことはそう起こるものではないだろう。

 ふと、玉緒に言われた言葉を思い出した。白鳥は確か、あの事件の後、その時起きたことを覚えていなかったと言っていた。そんなことあるわけないと思っていたが、現に今同じことが起きている。まさか彼女は若年性アルツハイマーとか、健忘症の類にかかっているのだろうか。それならば一週間前の出来事すら覚えていないことも納得できる。

 しかし、そんな人間が普通に仕事するだろうか。そういう人間が今まで周りにいなかったのでなんとも言えないが、そんな病気になっていたら普通に仕事をすることは困難だ。

 しかし彼女は事務員として仕事を続けている。もしかして今の言葉は、ただ単にあの時のことを人に知られたくないから嘘をついている、というふうにも考えられる。白鳥が嘘をつくようには見えないが、人によく見られたいとそういう嘘をつくことだってあるだろう。

「本当に覚えていないんですか。僕に言った言葉も」

 和紗はカマをかけてみた。あの時白鳥と会話はしていない。ただ、彼女が自分を笑っただけだ。しかし、ここで彼女が反発すれば、彼女が嘘をついていると分かるだろう。

「ご、ごめんなさい……何か、失礼なことを言ったのなら謝ります……っ」

 白鳥はごめんなさい、ごめんなさい。と何度も謝った。思っていた反応と違うものが帰ってきて、和紗はまた拍子抜けした。そしてより不審に思った。

 白鳥は本当にあの時のことを覚えていないのだろうか。しかし、なぜ? あの時、彼女は自分が立ち聞きしていたことを知っていたかのように廊下に佇んでいた。そして、嘲笑った。覚えていないなんてことがあるのだろうか。

「……僕の、勘違いだったみたいですね。すみませんでした。取引はうまくいっています。心配いりません」

 これ以上の追求は不可能だ。そう判断した和紗は、時間をとらせてすみませんでした、と謝って会議室を出た。

 しかし、疑問は解消されるどころか深まった。あの時玉緒に聞いた話は本当だったのだ。白鳥は本当に忘れている。しかし、その原因がわからない。白鳥のあの怯えるような態度も、心当たりがない。あんな状態で普通に生活ができるのか、不思議なくらいだ。

 白鳥花純は一体何者なのだろうか。