翌日朝、出社した和紗は会社のエントランスで白鳥と会った。一瞬避けようか、とも思ったが、それよりも先に白鳥の方が挨拶してきた。

「おはようございます」

 しかし、彼女の態度は拍子抜けするほど普通であった。いつものように伏し目がちに、目線も合わさないまま同じタイミングでエレベーターに乗りこんだ。

 和紗は会釈したものの、咄嗟のことでどうすればいいか分からず何も言えなかった。白鳥は何も言わなかった。そのまま彼女は事務局がある階で降りてしまい、朝から気まずい体験をすることになった。

 昨日の白鳥は酔っていたのだろうか。一瞬、そんなことを考えた。酔っていたからあんな態度をとった。あんな暴言を吐いた。だが、彼女は酒を飲んでいたふうではない。であれば、昨日の彼女は白鳥────いいや、本当に『黒羽レン』という女性だったのか。

『黒羽レン』は自分が白鳥のもう一つの人格であることを認めた。もしそれが本当なら、自分が見た『白鳥らしき女性』と『黒羽レン』は同じ人物、ということになる。

 しかし、にわかには信じ難い。二重人格者を今まで見たことがないから、彼女がそうであると断定することが出来なかった。

 いつもより少し早めにデスクに着くと、スマホを取り出し、インターネットの検索エンジンに「二重人格」と打ち込む。検索結果はすぐに表れた。そこには「解離性同一性障害」という難しい単語が書かれていた。その下に書かれている補足の文章を読む。

 簡単にいうと、二重人格、というのは強いストレスを受けた際にもう一つの人格が生じる精神的な病気のことだそうだ。一つの体の中に二つの人格が存在する。にわかには信じ難いが、これは起こり得ることらしい。決して、物語の中だけの話ではないようだ。

 この記事を信用すると、白鳥花純はなんらかの理由によりもう一つの人格が生じ、黒羽レンという人格と共存することになった、ということになる。まだ完全には信じられないが、そういうことだろう。

 ということは、以前起きた事件は白鳥ではなく、黒羽レンが引き起こした可能性がある。事件のことが記憶にない。そしてまったく違う態度を取った。その事実だけで、十分その可能性は考えられるだろう。

 だが、なぜ黒羽レンはそのようなことをしたのだろうか。あの性格なら誰にでも喧嘩を売りそうだが、普通に接している時の彼女は高飛車であるもののまともに話ができた。誰にでも敵意を剥き出しにしている、というわけではないらしい。

 しかし昨日、彼女はなぜ自分に対しいきなり怒ったのだろう。二重人格であることを信じてもらえなかったからだろうか。それとも尾行をしたからなのか。

「安城くん、何やってんの。十時から本堂商事と約束してるでしょ」

 玉緒の声でふと、意識を戻す。壁にかかった時計の時刻は始業時刻の九時に差し掛かろうとしていた。

「……っすみません。すぐ準備します」

「もう、そんなんじゃポカやるわよ」

 慌てて準備しながら、和紗はスマホの画面を閉じた。
 朝礼を終えた後、玉緒とともに社用車に乗り込んだ。今日は十時から営業先である本堂商事にアポをとっている。和紗は運転係、助手席では玉緒が資料を読んでいた。

「最近どうしたの。ボーッとしてることが多いわよ」

「すみません……」

「ま、取引先に迷惑かけなきゃ別にいいんだけど。優秀な君にしちゃ珍しいじゃない」

「……玉緒さん、二重人格って信じますか?」

「は?」

 玉緒は資料から顔を上げ、頭に盛大に眉をしかめた。和紗はしまった、と思った。あまりに突飛な質問で驚かせてしまったようだ。

「さあ……私はジキルとハイドぐらいしか知らないから」

「なんですかそれ」

「知らないの? 小説よ。ジキル博士とハイド氏っていう。二重人格の博士の話。結構有名なのよ」

「すみません、無知なもので」

「それで、なんでいきなり二重人格なの?」

「それは────」

 さすがに、白鳥が二重人格者であることは言えない。あれだけのことで確定するわけにもいかないし、玉緒に言ったところで信じてもらえないだろう。彼女はそういう非現実的なことは信じなさそうだ。咄嗟に作り話をして誤魔化すことにした。

「たまたまそういうドラマを観たんです。主人公の女が二重人格なんですよ。それでいろんなトラブルが起きるんですけど……」

「ふうん、まんまジキルとハイドじゃない。まあ珍しくもない設定よね。最近漫画とかでもよく見るし」

「へー、玉緒さん漫画見るんですか」

「私だって漫画ぐらい見るわよ。あんまり詳しくないけどね」

 意外だ。彼女は二重人格を全く信じていないわけではないらしい。だが仮に白鳥のことをが本当だとしても、玉緒に言うことはできないだろう。

 白鳥は本当に二重人格者なのだろうか。それを確かめなければ何も分からない。

 営業先を数件回った和紗と玉緒は、再び事務所へと戻った。和紗は用事にかこつけて会社の中をあちこちウロウロした。もう一度白鳥と会って、真相を確かめられないかと期待していた。

 しかし白鳥とは数度すれ違ったものの、彼女はいつもの白鳥のままで、黒羽レンと会うことは出来なかった。