レンと別れて以来、和紗は白鳥に避けられていた。会社で会っても逃げられるし、視線も合わせてもらえない。今日も顔を見た途端逃げられて、和紗はどうしたらいいか分からなくなった。

 おそらく白鳥は誤解しているのだろう。和紗が白鳥に話しかけたのは玉緒の指図なのだと、そう思っているのかもしれない。

 いや、もしかしたらあの話を聞かれたことが嫌だったのかもしれない。不名誉な話だ。彼女は何も悪くないのに、会社では悪者扱いされている。そんな話、仲良くなった人間に聞かれたいわけがない。

 だが、レンの話が本当だとしたら玉緒は全て知っている。なら、玉緒を説得すれば白鳥のことを弁解してもらえるかもしれない。言うなれば玉緒は唯一の証人なのだ。

 なぜ彼女がそのことについて何も言わなかったかは不明だが、それは尋ねてみるしかないだろう。

 営業先から戻って来た和紗は、玉緒の様子を伺いながらデスクに着いた。彼女はいつも通り仕事している。

 あれ以来、彼女は特別変わった態度は見せていない。流石に、彼女は営業のプロだから、表に出すようなことはあまりないかもしれない。

 今日、誘ってみよう────和紗は決意した。真面目に聞けば、玉緒だって真面目に答えてくれるはずだ。尋ねるとするなら会社の外で、落ち着いて喋れるところがいいだろう。

 就業時間手前になると、和紗はあらかじめ考えていたセリフを口にした。

「玉緒さん、今日飲みに行きませんか?」

 できるだけ軽い口調で、玉緒に不審がられないように。この手の誘いは何度もしているからか、玉緒は特別警戒しなかった。

「飲みに行けるほど仕事が片付いてるならいいわよ」

「大丈夫です。今日はきっちり上がれます」

「オッケー、じゃあいつものところね」

 玉緒も仕事が大方終わっていたのか、時間が来るとすぐに片付け始めた。

 和紗と玉緒は会社近くにある『いつもの』という居酒屋に入った。華丸商事の先輩社員達とよく行く居酒屋だ。和紗ももう、何十回と訪れている。

「生二つ」

 いつもの通りファーストドリンクを注文し、玉緒はお品書きを見始めた。適当につまめるものを二、三品頼み、ビールを飲みながら玉緒の愚痴を聞く。

 和紗は彼女の隣にいた白鳥の姿を想像した。かつて、二人は同期として入社し、同じ営業部で働く仲間だった。白鳥は玉緒を慕い、玉緒も白鳥のことを友達だと思っていたはずだ。

 レンは白鳥を見捨てた玉緒のことを嫌っているようだったが、玉緒は白鳥のことを嫌っているようには見えなかった。もし、本当に白鳥のことを見捨てたのだとしたら、それはもっと何か別の理由があったのではないだろうか。

「どうしたの安城くん。ジョッキの中身が減ってないわよ」

 玉緒はいつもの調子で揶揄うように自分のジョッキを和紗にグラスにカチンと当てた。ガラスのぶつかる音がした。

「玉緒さん……どうして、白鳥さんを助けなかったんですか?」

 その時、玉緒の瞳がカッと見開いた。彼女の瞳はグラスを見つめていたが、やがて和紗にその視線を向け、恐る恐る口を開いた。

「────花純ちゃんから、聞いたの?」

「いいえ、違います」

「そんな、あの場には他に誰も────」

「じゃあ、本当なんですか」

 もう一度念を押すように尋ねれば、玉緒は重いジョッキを置いて、暗い顔で「知ってるのね」と答えた。

「玉緒さんは、白鳥さんのこと……嫌いだったんですか」

「……っ違う。そうじゃない。あの時は……」

「どうして、白鳥さんを助けなかったんです?」

「助けなかったわけじゃない……私だって、助けたいとは思ってた……。でも、怖かったのよ」

「怖い?」

「安城くんは、男だから分からないかもね……。女の営業はね、大変なの。私もこの歳になったら落ち着いたけど、最初の頃は若いぶんチヤホヤされて、セクハラみたいなことは山ほどあったわ。女の営業なんて、ろくなものじゃなかった」

「でも、だからって……!」

「仕方ないって思ってたわけじゃない。私だって社会人になりたての新米営業で、そういうことされても平気でいられるほど図太くなかった。花純ちゃんにだって、何度泣き言聞いてもらったか分からないわ。だからこそ、怖かった……安城くんはそんなことないかもしれないけど、酷い人は誘いを断ったりすると会社まで電話掛けてきて、あることないこと上司に文句を言うの。あの時接待してた人だって、ほんとは嫌だった……。一緒にいたら何されるかわからない……花純ちゃんがお手洗いに行って、あの人が席を立った時、嫌な予感がしたの。だから心配になって、見に行ったけど────」

玉緒がこんなに不安そうな顔をしている姿を見たのは初めてだった。しっかり者で、男っぽく、いつも周りを励ましていた姿とは違う。

 和紗はなんだか現実を思い知った気分だった。自分は男である分、恵まれていただけなのだ。違う苦労はあるものの、玉緒や白鳥のように身の危険を感じるほどのことはない。嫌味を言われたりパワハラめいたことはあっても、落ち込むだけで終われる。

 玉緒が今のようになったのは、そういう経緯があるからなのだろう。男っぽい動作をするのも、男社会で渡り合っていくために得た智恵なのだ。

 玉緒と白鳥がどんなに苦しんでも、自分は所詮想像しかできない。セクハラされたこともなければ、襲われたこともない。

 だが、だからといって白鳥が全ての責任を被るのは違う。白鳥は無実だ。いや、正当防衛でやったと分かれば、彼女も今までのように白い目で見られることもない。

「玉緒さん……辛かったことは分かります。でも、このままじゃいけないと思います。玉緒さんだって、本当は辛かったんじゃないんですか。申し訳ないと思ってたから後ろめたくて事務局に顔を出さなかったんでしょう」

「けど……花純ちゃんは怒ってるのよ。今更私が何しても、許してくれない。会社の反応がどう返ってくるかも分からない……何年も前のことなんだもの」

「……っ玉緒さんがそんな卑怯者だなんて知りませんでした。僕が知ってる玉緒さんは、もっと男らしくて、正直でした。僕が失敗した時だって、いつも庇ってくれたじゃないですか。それなのに何もしないなんて……!」

 和紗はかつてないほどイライラした。玉緒に対し怒りが湧いたのは初めてだった。そういう曲がったものとは無縁そうに見えた彼女が、こんな簡単なことでもたもたしていることが信じられなかった。もし仲直りできなかったとしても、自分なら白鳥を助けるだろう。洗いざらい本当のことを話して、最善の策を取るだろう。

 和紗は乱暴に財布から紙幣を取り出してテーブルに置いた。

「玉緒さんが何もしないなら、僕が上に直談判します。それでも動いてくれないような会社なら辞めます」

 捨て台詞のように吐き捨てて、彼女の言葉も待たずに店を出た。

 少し言いすぎた、とも思ったが、他に方法がなかった。何年も前に起こったことを今更蒸し返し、証拠も何もない和紗が上司に掛け合ったところで結果は知れている。その場にいたという玉緒がアクションを起こさなければどうにもならないのだ。

 仮に事件のことで会社が動いてくれなかったとしても、二人には仲直りしてほしい、と和紗は思った。一人でも理解してくれる人間がいれば、白鳥だって気の持ちようが違うはずだ。

 おそらくだが、白鳥は玉緒のことを恨んでいるわけではない。彼女にとって辛い記憶であることには違いないだろうが、白鳥はそのことで玉緒を恨んでいない。あの時自分に玉緒のことを尋ねた彼女の表情は、ただ、悲しそうだった。