レンが花純の中に引っ込み、しばらく経ったある日のことだった。和紗は蘭と共に泊まりで出張に出掛けた。場所は大阪だから、新幹線で行けばすぐに戻ってこれる距離だ。

 午前中は大阪市内にある営業先を何件か回り、午後は華丸商事の大阪支社に行って仕事した。その夜は歓迎会と称して飲み会があり、夜遅くまで連れ回された。

 ようやく飲み会もお開きになり、玉緒と一緒にフラフラしながらホテルに戻った。飲み過ぎたせいか、和紗はなんだか気分が悪かった。

「おーい、安城くん。生きてるかあ」

 同じくやや酔い気味の玉緒は和紗の前でひらひらと手を振った。和紗は生きてますよ、とその手を押し除けた。

「玉緒さん、飲み過ぎですよ。焼酎何杯飲んだんですか」

「一軒目で三杯……二軒目で四杯……あとハイボールと、ビールとお……」

「飲み過ぎですよ。僕より酷いじゃないですか」

 そういう和紗もそこそこ飲んでいた。だから気分が悪かったが、このままホテルに帰ると明日の朝が心配だ。和紗はコンビニに寄って酔い止めの薬とリンゴジュースを買った。酔った時に効くのだといつか誰かから聞いた覚えたあった。

「はい、これ飲んでください」

 和紗は自分の分を残し、残りを玉緒に手渡した。

「安城くん、やっさしー。それなら営業先でモテモテね」

「あのねえ」

「けど、男は優しいだけじゃダメよ。甲斐性とか、男らしさとか、ああ、収入も大事。あとは顔と、清潔感────」

 相変わらずフラフラした玉緒の横を歩きながら、和紗はふとレンに言われた言葉を思い出した。優しいだけはダメだ。彼女はそう自分を叱った。

 なら、どうするのが正解だったのだろう。レンのことなど放っておいて、もういないものとして扱うのがいいのだろうか。だが、放っておけない。

「玉緒さん……僕って、優しいだけなんですかね」

「んー?」

 酔った玉緒では相談相手にならないことなど百も承知だった。だが、それでよかった。真面目に聞いてもらいたい話ではない。

「優しいだけじゃダメだって言われたんです」

「そりゃあそうでしょ。優しさってのはいろいろあるんだから」

「たとえば?」

「本当の優しさって厳しさも兼ねてるところあるからねー。優しくしてるだけじゃ、相手のためにならないこともあるのよ。それに優しさだけを振りまいてると、いつか足元とすくわれる時もある。安城くんは、もっと相手の気持ちに寄り添った優しさを持った方がいいんじゃない」

 酔っている割に、言っていることはまともだ。彼女の言葉には一理どころか百理もある。確かに、困っているなら助けよう、ではなんの解決にもならない。どんなことでもそうだろう。

 レンの考えは間違いではない。誰彼構わず助けることは結果自分の首を締める。だが、だからといってレンを放置できるだろうか。

「どうしても……優しくしてしまう場合は、どうしたらいいんでしょう」

「好きなんじゃない」

「え?」

「その人のことが好きなんでしょ。だから放っておけないのね」

 ────俺が、レンを好き? 

 和紗は一瞬ポカンとした。だが、あながちそれも間違いではないのかもしれない、と思った。レンと一緒にいて楽しいのは事実だ。彼女と一緒にいると白鳥とは違った高揚感がある。それは、好きという感情なのかもしれない。

 だがだとしたら、ますますややこしいことになる。

 レンは白鳥と同一人物だが、二人は別の人格だ。自分は二人が好きだが、それだと二股にならないだろうか。それとも、同じ人間だから違うのだろうか。

 レンは絶対自分を受け入れてくれないだろう。いつも自分のことを子供扱いしている。それに、白鳥だってどう思っているかわからない。いっそ二人が自分のことを好きになってくれたらいいのだろうか。そんなこと、うまくいくわけがない。ギャルゲーの世界ならともかく、ここは現実だ。そんなハーレムみたいなこと、起こるわけがないのだ。

 ホテルに着き、和紗は自分の部屋に戻った。時刻はもう十二時を過ぎている。冷蔵庫からミネラルウォーターを一本取り、喉の渇きを潤した。夜はもう遅いが、先ほど考えていたことが頭の中をグルグルしていて眠れそうにない。

 ふと、スマホに視線をやった。白鳥は起きているだろうか。こんな時間だ。眠っているだろう。だが、和紗は自分自身の感情を確かめたかった。

 通話履歴をスクロールし、いつかの記録を呼び出した。少し躊躇った後、彼女の名前をタップする。コール音が一回、二回────。和紗は十数秒待った。そして、コール音が途切れた。

『はい……白鳥です』

 白鳥の声は寝起きのようだった。やはり眠っていたのだろう。

「すみません白鳥さん……寝ていましたよね」

『いえ……大丈夫です。どうしたんですか』

「すみません。ちょっと……話がしたくなって……」

 白鳥は一瞬黙った。だが、すぐに穏やかな声が聞こえてきた。

『私でよかったら、聞きますよ』

 その声を聞くと、自分の中にあったモヤモヤがすっと治るのを感じた。白鳥といると心が穏やかになれる。彼女の放つ空気感が、この心地よさを生み出していた。

 だが、レンといる時は別の楽しさがある。無邪気で、奔放で、予測がつかない。どちらも本物だ。

『安城くんは、寝てなかったんですか?』

「そうなんです。大阪に出張中で、さっきまで飲み会でした」

『そうなんですか? 大変ですね』

「ベロンベロンになった玉緒さんを連れて帰ってきたところですよ」

 電話の向こうでクスクス笑う白鳥の声が聞こえた。

「あれで彼氏ができないって嘆いてるんですよ。酒癖直せばいいのに」

『蘭さんは美人だから、大丈夫ですよ』

「白鳥さんも美人ですよ」

 自分も酔ったのだろうか。酔ったから、こんなことを口にしてしまったのかもしれない。普段なら絶対に言わないが、酒のせいで判断ができなくなっているのだ。嘘ではない。本心だが、口にするつもりはなかった。

 白鳥は驚いているのか黙ってしまった。さすがに気持ち悪いと思われただろうか。

「すみません。……酔ってるみたいですね」

『……安城くんは、誰にでもそういうことを言ってるんですか』

 声のトーンがやや暗くなる。和紗は慌てて弁解した。

「……っ違います。僕はそういうつもりじゃ────」

『そういう言葉は、簡単に言っちゃいけないと思います』

 ────本気の人以外は。

 和紗は金縛りにあったように動けなくなった。その言葉の意味と、レンの言葉の意味を今更実感した。彼女が言っていたのはこういう意味だったのだろう。

 スーパーマンが誰も彼も助けることができないように。戦地にいる医者が全員の命を救えないように。愛する人間も選ばなければならない。思わせぶりな発言は相手を傷つけることにもなる。────本気でないのなら。

「……白鳥さんは、どんな人が好きですか」

『え?』

「年下は、興味ないですか」

 ずいぶん遠回しな聞き方だが、白鳥がこれで気が付かないほど鈍い女性とは思えなかった。交友関係の狭い彼女の年下の知り合いなんて知れている。和紗は自分が確実のそこに食い込むことをわかっていた。

 しかし、この質問は非常に危険な賭けだった。興味ありません、と言われてしまえばそこまでだからだ。白鳥と自分はそこまで歳が離れているわけではないが、そこが気になる女性もいるだろう。それに自分の印象があくまでもいい人止まりなら、この質問が裏目に出てしまうかもしれない。

『そんなことありません』

 その一言を聞いて、和紗は天にも登るような気持ちだった。ほんの少しでも希望が見えた。その次の言葉を期待して自然と胸が高鳴った。

『安城くんは、年上の人は嫌……ですか』

「そんなことありません」

 やたら早口に答えた。もはやここまでくると、白鳥の気持ちが大体わかったような気になって、さっきまで尻込んでいた気持ちはどこかへ消えた。

 伝えよう。彼女に告白して、はっきりと自分の気持ちを示すべきだ。そう決意した。

「白鳥さん、僕は──」

 だが、不意にレンの顔が浮かんだ。そして、ある考えが脳裏にチラつく。

 レンは白鳥の苦悩、苦痛から逃れるために生まれた人格だ。もし白鳥がそれらから解放され、心から幸せになった時──レンは消えてしまうのではないだろうか。

 そう思うと、途端に焦がれていた思いも冷や水をかけられたように萎んでしまった。レンの悲しそうな顔が自分を引き止めるようで、言うことが出来なかった。

『……安城くん?』

「……なんでもないです。夜分に電話をかけてしまってすみません。おやすみなさい」

 和紗は半ば強引に話を終わらせた。通話を終わらせる赤いボタンを押し、スマホをベッドの上に投げ捨てる。

「何を言おうとしたんだ俺は……」

 スマホに続いてベッドに身を投げ出す。自分の部屋ならもう少し落ち着けたのだろうが、ホテルだからか、疲れているのに眠ることができなかった。

 白鳥に告白できなかった。伝えるには絶好のタイミングだったが、とてもそんな気分にはなれなかった。

 レンは今頃失望しているだろうか。白鳥の中で、呆れているのかもしれない。そして白鳥もきっと、戸惑っていることだろう。

 だが、無理だ。レンが消えるかもしれないのに、告白なんて出来なかった。

 眠気なんてかけらもなかったが、和紗は靴と靴下を放るように脱いで再びベッドに横たわった。外も静まり返るような時間だったのに、和紗はまだしばらくの間眠れなかった。