街灯がポツポツと灯る暗闇に近い路地を、荒い吐息と足音が駆け抜ける。

 額には汗が流れていて、じっとりした。全身を駆け巡る恐怖と悪寒は、後ろを振り向く余裕をもたせてはくれなかった。

 ────どうしてこんなことになったの?

 今はただ、一刻も早く家にたどり着くことだけを考えた。

      ◇

 霧咲紅(きりさきくれない)が有明高校に入学して数ヶ月が経とうとしていた。

 小さい頃両親が失踪し、紅はたった一人の祖母に育てられた。

 祖母のおかげで暮らしに不自由はなかった。友人と一緒に入学した有明高校で、紅は楽しい高校生活を送る予定だった。

 だが、中学を卒業する前に、たった一人の家族だった祖母が病気で他界した。

 紅に他に親戚はいなかった。失踪以降連絡のない両親の所在なども分かるわけもなく、紅は生活していくだけの力があったから、祖母の家でそのまま暮らすことになった。

 祖母が遺してくれた財産のおかげで、有難いことにバイトをする必要もなく高校にも通うことが出来た。限りはあるが、高校、大学と通うには十分な額の財産だった。

 だが、紅は学力はあっても入学金の高い私立高校に通おうとは思わなかった。

 有明高校を選んだのは、学費が安かったからだ。贅沢さえしなければ普通の生活が送れる。高望みせず、普通の、当たり前の生活が送りたかった。

「紅、誕生日おめでと!」

 教室に着くと、小学校の時からの親友であるエリカが綺麗にラッピングされた包みを渡してきた。手のひらほどの大きさの、ピンク色の包装紙に包まれた箱だ。

 紅はまだ開けてもいないのにそれを見て思わず笑顔になった。

 今日は紅の十六歳の誕生日だった。祖母がいないためケーキもプレゼントも出てこない寂しい誕生日になると思っていたが、エリカは忘れずにいてくれたのだろう。

「わ────覚えててくれたんだ」

「そりゃあ、毎年祝ってるからね。ほら、いいから開けてみてよ!」

 急かされてそれを開けると、中からガラスの瓶が現れた。中には綺麗な薄い赤色の液体が入っている。ガラス瓶には筆記体で文字が書かれていたが、なんと書いてあるかは分からなかった。鼻を近づけると薄らとなにかの香りが漂ってきた。

「これ、香水?」

「うん、この間見つけてね。紅が好きそうだから思わずこれにしちゃった。すごくいい香りなんだ」

 エリカは楽しげに香水の説明をした。

 蓋を開けて、手の甲にそれを吹きつけた。不思議な香りが漂ってくる。なんとも言えない深い香りは、周りいた生徒を振り向かせた。

「これ、なんの香り?」

「えーっとね、説明書が────なんて名前だったかな」

 エリカは包みの中に入っていた小さな紙を取り出した。それにはいくつかの成分が書かれているが、聞き覚えのある名前を見つけた紅はそれを読み上げた。

「────ムスク? ってあの?」

「そうそう、最強の媚薬! これを振ればどんな男もイチコロ間違いなしってね」

 ムスクという名前は何度か聞いたことがあった。インテリアショップに行けばルームフレグランスとしてよく売られている香りの一つだ。エリカのいう通り、(ちまた)では媚薬として有名らしいが、紅は興味もなく、縁もないと思っていた。

「なんでそんなものを……」

「これで早く彼氏つくりなってことよ」

「もう、全くエリカってばロクなこと考え────」

 教室の扉がガラリと開き、教師が入ってきた。生徒たちはバタバタと自分の席に戻った。紅は教師に見つからないよう慌てて瓶を鞄の中に仕舞った。

 ────最強の媚薬、なんて本当なのかな?

 先ほどの香りを思い出しながら、紅は手についた香りを嗅いだ。

 お生憎様、今の自分には使う用事がない。エリカの言うように、それを使うような意中の男はいなかった。

 この誕生日プレゼントが役に立つかどうか分からないが、彼女が毎年欠かさず祝ってくれることは本当に嬉しかった。天涯孤独となった自分にとっては、この親友が唯一の慰みだった。