とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
「買わないものは見ない」。これが、綾芽の信条だ。

 綾芽はいつも仕事場まで一直線に行き、どこにも寄らずに帰宅する。それは余計なものを見て購買意欲をかき立てられないためだ。

 節約しているが、綾芽だって綺麗な服を見れば可愛いと思うし買いたくもなる。おいしいご飯だって食べたいし流行りのランチにも興味がある。

 だが、見てしまったら今の自分と比較して虚しくなるだけだし、使ってしまえばお金は一瞬でなくなるのだ。だから無駄な寄り道を避けてきた。

 にもかかわらず、今日の綾芽はいつもとは真逆の行動をとっていた。

 いつも通る通勤路にある桃色のオーニングが印象的な店先には、花が植えられた鉢がいくつか並び、イーゼルに掛けられた看板にはおしゃれな文字で『シャン・ド・フルール』と書かれている。先日「青葉さん」から貰った菓子の販売店だ。

 今日ここに寄ったのは他でもない。あのマカロンの値段を知るためだ。

 人が買ってくれたものの値段を調べるなんてあまり良くないことのような気がするが、なんとなく気になった。それに、この店は以前から気になっていた。買うわけではないのだ。見るぐらいならお金は掛からない。

 綾芽は意を決して店の中に入った。

 店の内装は店先と同じで可愛らしいパステルカラーでまとめられている。

 綺麗なショーケースの中には淡い色目のケーキがいくつも並び、その上には可愛くラッピングされた焼き菓子が乗っていた。壁にはよく分からない花の絵と、よく分からない観葉植物。全体的に女子力の固まりのような店で、あの男性がこの店で菓子を買ったことが信じられないぐらいだ。

「いらっしゃいませ、なにかお探しですか」

 綾芽がキョロキョロ見ているのが気になったのか、綾芽の十倍ぐらいにこやかな笑顔を浮かべて店員が話し掛けてきた。

 咄嗟に綾芽はマカロンはありますか、と尋ねていた。

 店員は気を悪くするでもなく、こちらでございます、と壁沿いに置かれた棚に案内した。

 そこには十種類ぐらいのマカロンが綺麗に並べられていた。

 先日彼に貰ったものと同じ色目だ。ということは、彼はこの中から買ったのだろう。マカロンの横には詰め合わせの値段も書かれている。綾芽は目を剥いた。

 ────じゅ、十個で四千円!?

 とんでもない価格に、綾芽は卒倒しそうになった。慌てて他の菓子も見てみたが、ケーキもワンカットで七、八百円ほどの価格だ。彼はまさか、たかだか数百円の水と薬のお詫びにこんな高価なものを買ったのだろうか。

 それとも、世間一般ではこういうものを送るのが普通なのだろうか。

「あの……このお店で一番人気のお菓子ってなんですか」

「一番人気はショーケースの中にございますフランボワーズのア・ラ・カンパーニュローズ風でございます」

「そ、そうですか……」

 横文字ばかりでなにを言っているかさっぱり分からなかった。だが、そのフランボワーズのなんとかローズが一個九百円もするのを確認して、マカロンが一個四百円しても仕方ないと思えた。

「すみません、考えてまた来ます」

 綾芽は呆然としながら店を出た。

 まるで別世界だった。ケーキ屋はいつの間にあんな高級になったのだろうか。それとも、この店がある通りが上場企業ばかりあるせいなのだろうか。

 ショーケースの中にあるケーキはどれも美味しそうだったが、綾芽は食べたいと思うよりも値段に気を取られて散財する気にもなれなかった。

 あんな高いマカロンを買ってくれた「青葉さん」に対して感謝するよりも、金銭感覚が合わないという呆れにも似た感情しか出てこなかった。

 千七百円の弁当を買う男だ。自家製のおにぎりを食べる自分とは絶対に合わないだろう。

 お礼をすることも考えたが、彼を満足させることは不可能だろうと諦めた。
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