とある企業の恋愛事情 -ある社長秘書とコンビニ店員の場合-
 木曜の午後五時。俊介は終業時間を確認すると、すぐに荷物をまとめ始めた。

「なんだ、なにか用事でもあるのか?」

 俊介がきっちり五時に上がることを珍しく思ったのだろう。本堂はデスクに着いたまま顔を上げた。

 確かに、珍しいことだと俊介自身も自覚している。

 残業が好きなわけではないが、仕事の後に用事が入ることは滅多にない。それこそ、藤宮家の用事しかない俊介には、飲みに行ったり食事に行ったりすることは誘われでもしない限り稀だった。

「ああ、ちょっと食事にな」

「なんだ、デートか?」

 本堂は茶化すように言った。

「残念ながらデートじゃない」

「へえ。ま、頑張れよ」

「じゃあ、先に上がるぞ。お疲れ」

 鞄を持って俊介は一階のコンビニへ向かった。彼女も五時で上がりだろうから、十分過ぎぐらいに行けば片付けも終わって会えるはずだ。

 ロビーにたどり着くと、既に彼女はコンビニの前に立っていた。いつもと同じ格好だ。俊介の姿を見つけると、ペコリと頭を下げた。

「お待たせしましたか?」

「いえ、さっき上がったばかりです」

「行きましょうか。店はすぐ近くですから歩いて行けます」

 俊介は彼女の横に並んで本社ビルを出た。

 彼女は緊張しているのか、あまり喋ろうとしない。元々お喋りな方ではないようだが、年上の俊介がいて緊張しているのかもしれない。

 俊介は当たり障りない会話を振ることにした。

「今日はもう一つのお仕事はないんですね」

「はい。そっちの仕事は比較的自由にシフトを入れられるので、お休みにして貰いました」

「前は催事場にいらっしゃいましたが、ああいう仕事をされているんですか」

「いえ、仕事を紹介してくれる会社があって、そこでランダムに紹介された仕事に行くんです。あの時はたまたま催事のお仕事だったのであそこにいました」

「じゃあ他にも仕事を?」

「はい。イベントのお仕事とかで設営したりもしますし、色々あります」

「すごいですね。その時によって仕事が変わるのに臨機応変に対応できるなんて」

「大したことじゃ……あなたの方が、ずっとすごいと思いますよ。藤宮コーポレーションにお勤めなんですから」

「そんなことは……そういえば、お名前を伺うのを忘れていましたね。私は青葉俊介と申します」

「あ……私は立花、綾芽です」

 綾芽という名前なのか。思っていたよりもずっと可愛らしい名前だ。

「あの、そんなに丁寧に接して頂かなくても結構です。私の方が年下ですし、なんだかビジネストークしてるみたいなので……」

「……すみません。つい癖で。じゃあ、もっとフランクに喋ることにするよ。立花さんは俺より歳下みたいだけど、何歳ぐらい?」

「二十一歳です」

「二十一!?」

 俊介は思わず大声を出してしまった。

 思っていたよりもずっと歳下ではないか。聖と同じぐらいだと思っていたが、まさかそれ以下だとは思わなかった。

「……いや、すまない。まさかそんなに下だと思わなかった」

「いいんです。歳上っぽいってよく言われますから。青葉さんはおいくつなんですか」

「俺は今年で三十六なんだ。そうか、そんなに下だったとは……」

 これでは本堂にロリコンと言われても仕方ない年齢差だ。本堂と聖は十一才差だが、彼女と自分は十五歳差だ。完全にアウトだ。

 だが、そもそも自分たちは別にデートしているわけではないし、今回のはただのお礼だ。親戚の女の子と食事するぐらいのつもりでいいだろう。

 十分ほど歩くと店に着いた。パキッとした白い壁が印象的なイタリアン『Aida(アイーダ)』は取引先と何度か食事したことがある店だ。

 高級そうに見えるが意外とリーズナブルで、酒を一、二杯飲んでも二人分で一万もかからない。

 彼女はおごるつもりでいるようだが、先程年齢の話を聞いたからか、払わせるのが逆に申し訳なくなってきた。十五歳も歳上なのに歳下の女性に全額払わせるなんて紳士的ではない。むしろここは自分が出すべきだろう。

「どうぞ、入って」

 俊介が店の入り口の扉を開けると、綾芽は躊躇いがちに店の中に入った。

 以前来た時と変わっていない。店内は洗練され落ち着いた雰囲気で、開放的なダイニングはやさしいライトで照らされている。以前打ち合わせに来た女性もとても喜んでいたから、女性ウケはいいはずだ。

 店内の席は半分ほど埋まっている。だが、予約しているから問題ないだろう。

 スタッフに名前を告げると、店の奥へ案内された。この店は一番大きな部屋とガーデンテラスのどちらで食事するか選べる。俊介は落ち着いて食事したかったので、席数の少ないテラス席にした。

 テラス席は表の通りに面しているが、大きな観葉植物がいくつも置かれているしパーテーションもあるのでそれほど視線は気にならない。テーブルにはキャンドルが置かれていて、もてなしの演出としてはバッチリだ。

 綾芽はこういうところに来たことがないのか、目だけキョロキョロと辺りを見て黙ってしまった。まだ二十一歳ならこんな店には来ないかもしれない。

「予約席」と札が置かれた席に腰掛け、スタッフからメニューを受け取った。俊介は先に綾芽にメニューを渡した。

 綾芽の好き嫌いは聞いていないが、基本的に嫌いなものがあれば避けてもらえるので心配なのだろう。この店は特別変わった食材は置いていないから、好き嫌いの多い人間でなければなんでも楽しめるはずだ。

「俺は適当に頼むから、立花さんからどうぞ」

「は、はい……」

 綾芽は相当迷っているようだ。メニューを何度かパラパラとめくっているが、また元に戻って見返している。もしかして、値段のことを心配しているのだろうか。

 掛け持ちしてバイトしているぐらいだから、家計は厳しいのかもしれない。

「気にしないで選んでくれたらいいよ。俺が勝手に店を決めたんだ。俺が出すつもりで来たからなんでも好きなものを頼んで」

 だが、綾芽の表情は浮かない。やがてすぐに決めました、と言うと店内を歩いていたスタッフにすみません、と声を掛けた。

 綾芽が選んだのは桜エビと菜の花のフレッシュトマトパスタだ。俊介は前菜に鮮魚のカルパッチョとメイン料理に 燻製合鴨ロースを頼んだ。無論、一人で食べるつもりはないので、綾芽もつまめたら、と思って選んだチョイスだ。

 だが、店に着いてからと言うものの、綾芽の表情は堅い。緊張しているのだろうか。それほど敷居が高くない店を選んだつもりだが、これも彼女に気を使わせてしまったのだろうか。

「……青葉さんは、こういうお店でお食事することが多いんですか」

「え? ああ……一人で来ることはないけど、ここは取引先と来たことがあるんだ。その時喜んでもらえたから、立花さんも喜ぶかと思ったんだけど……」

「そうですか」

 綾芽の返事は素っ気ないものだった。

 そのうち食事がやって来て、綾芽はパスタに口を付けたものの、美味しいと言うこともなければまずいと言うこともない。ただ黙々と食事して、俊介の「口に合わなかった?」と言う質問に「いいえ」と返しただけだ。

 綾芽はカチャンとカトラリーを皿の上に置くと、おもむろに鞄を探り始めた。やがて財布を取り出すと、テーブルの上に二人分の食事代をきっちり税込みで置いた。

「立花さん? 今日のは俺が出すから────」

「結構です。夕食代ぐらい私だって出せます」

「……俺がなにか気に触るようなことを言ったのなら謝る。勝手に店を決めたし、断りもなく予約したから……」

「────そういうことじゃありません。とにかく、ありがとうございました。もうなにもして頂かなくても結構ですから」

 失礼します、と言って綾芽はそのままテラス席から出て行ってしまった。

 俊介は呆然としたまま綾芽がいなくなった方向を見つめた。

 ────また、俺がやりすぎたのか?

 ショックを受けていると、綾芽が食べるかと思って頼んでいたデザートが運ばれて来た。好きでもない甘いものを食べながら、俊介は綾芽が置いて行ったお金を眺めた。

 自分は女性とまともにデートも出来ないのだろうか。あんなに綾芽を怒らせてしまうとは思わなかった。

 普段落ち着いている綾芽があれほど怒っていたのだ。気が付かない間になにか大きな失態を犯してしまったのかもしれない。

 だが、後悔しても遅い。綾芽は感謝の気持ちと一緒にこのお金を置いて行ったのだ。
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