信じてもらえないかもしれませんが… あなたを愛しています

 宣言通り、機内で仕事をしようとタブレットを開いた樹だが、
何か気持ちがざらついて、文字が頭に入って来ない。

『久しぶりに名前を聞いたせいか…』

森下彩夏(もりしたさやか)いや、正確には高畑彩夏(たかはたさやか)だ。

10年前に入籍した、樹の妻。戸籍の上だけの配偶者。

『今更だろ…』

 何故、こんな事になってしまったのか、樹には分からない。
数字の分析は得意でも、人の感情を読み取るのが疎い彼にとって
一番難解な問題だった。考えても答えが見つからない。
だから、もう何年も前に彩夏について考える事を放棄してしまった。
すべて江本に丸投げだ。向こうからも何も言ってこないのを良い事に
この不自然な関係はダラダラと続いていた。


 仕事の関係者からは、時々
『奥様はどんな方ですか?』と尋ねられるが、
『幼馴染なんです。これ以上、勘弁してください。』
などと小声で返事をしておけば、

『高畑社長は、愛妻家。妻を人前に出さないくらい溺愛している。』
『どうやら妻とは別居しているらしい。離婚間近じゃないか。』

他人は勝手に、それぞれ都合のいい解釈をしてくれる。

ただ、『幼馴染』は嘘ではないかもしれない。

 樹は幼い頃、毎年夏休みのなると祖父と北海道の別荘に遊びに行っていた。
近くに一つだけある診療所の息子、3歳年下の金子俊一(かねこしゅんいち)と虫取りをしたり、
プールで泳いだりして休みを満喫していた。

 祖父の高畑雄一郎(たかはたゆういちろう)は競走馬が大好きで、
趣味が高じてサラブレッドを何頭も所有していた。
別荘の隣にある森下牧場のオーナー森下順三(もりしたじゅんぞう)はその道では有名な人物らしく、
祖父は彼に大切な馬を預けていたので、毎日のように牧場に入り浸っていた。
いや、馬の為に、牧場の隣に別荘を建てたのだろう。

 樹は中学2年の夏、そろそろ勉強に力を入れようと、
北海道の牧場で遊ぶのは当分諦めなければと思っていた。
それが、会社を継ぐ者の務めだと迷いもしなかった。
ただ、毎年遊んできた俊一と暫くお別れかと思うとチョッピリ淋しかった。
子ども時代と別れを告げる…そんなセンチメンタルな気分の夏だった。

 その時に出会ったのが、森下彩夏だ。
ただ、その頃の彼女… まだ5歳の幼女であった。



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