信じてもらえないかもしれませんが… あなたを愛しています

独りではなく


 その頃、彩夏は札幌にほど近い温泉街の小さなマンションに住んでいた。
子供を育てながら、動物病院で獣医師として働いている。
この温泉にはペットと泊まれるホテルや旅館がいくつかあり、
動物連れの観光客も多い。彩夏は大忙しの毎日だ。

 長谷川綾音の好意で、彩夏は利尻島の別荘で落ち着いた妊娠期間を過ごした。
近くの牧場の獣医師を手伝ったり、綾音のペットの世話をしたりした。
そして、無事、翌年の4月下旬に元気な男の子を出産した。
彩夏は、森下 (かける)と名付けた。
牧場で授かった命だと言いう事を忘れたくなかったのかも知れない。

 寂しくないと言ったら嘘になるだろう。
あれ程固い決意でシングルマザーの道を選んだが、実際には厳しい毎日だった。

 彩夏には獣医の資格もあるし、経済的には何とかなった。
だが、子供の成長を見るにつけ、共感できる相手がいないのが辛かった。
共に笑い、共に喜び、怒り、泣く相手が欲しかった。
いくら真由美や江本たちが支えてくれても、心の隙間は埋められない。

 何故あの時、樹に意地を張ったのだろう…
スキャンダルの相手に嫉妬していたのだろうか…
悩んでも、悔やんでも、別れてしまった事に変わりない。
自分が全てを掛けたつもりのプライドなんて何の意味も無かった。

 温泉街で親子連れを見かけると、無性に羨ましくなった。
駆から父親を奪ってしまった罪悪感に苛まれた。
樹に似てきた愛らしい子供の寝顔を見ると、彼への想いだけが募り、
人恋しい夜には少しだけ涙が出た。


< 62 / 77 >

この作品をシェア

pagetop