恋する理由がありません~新人秘書の困惑~
1.秘書として
***

 もうすぐ定時になる夕暮れ時のオフィスは、金曜日ともなればそろそろ帰り支度を始める人も多い。

海老原(えびはら)さん、今日までお疲れ様」

 後ろを振り返れば、声をかけてきたのは私の上司である武本課長だった。
 五十代前半の女性で、少しふくよかな武本課長は物腰が柔らかくてやさしい人だ。

「本当にごめんね。引き抜きみたいなのは困るって何度も上には言ったんだけど」

「いえ、課長のせいではないですから気にしないでください」

「海老原さんは優秀だし、いなくなられるとうちの部署は痛いわ」

 バツの悪そうな顔でフォローをする武本課長が、なんとなく言い訳をする子どものように思えて、私も話を合わせて苦笑いするしかなくなった。


 私、海老原 莉佐(えびはら りさ)はネイル商材を扱う会社である㈱アナナスで総務の仕事をして三年目になるけれど、この会社に勤務するのは今日で最後だ。
 慣れ親しんだ自分のデスクを眺めつつ、忘れ物はないかとカラになっている引き出しの中をもう一度開けてチェックをする。
 持ち込んでいた私物は数日前から持ち帰っていたので残っておらず、片付いたデスクの上を簡単に拭き掃除をして綺麗にしておいた。

 実は二週間前、いきなり親会社への異動を命じられた。
 仕事でなにか大きな失敗をした覚えはない。なのに事務の私がこんな冬の時期に異動だなんてどう考えてもおかしな話だ。

 『業績悪化によるリストラですか?』と、頭に浮かんだままを正直に武本課長に(たず)ねたけれど、そうではないらしい。
 昨今ではセルフネイルをする女性も増えたので売上も上々で、我が社の業績は悪くはないはず。

 詳しい話を聞くと、驚くことに異動先は親会社の秘書課だそうで、なぜかそこに私を、という先方からの要望だったそうだ。
 親会社の人がどこで私を知ったのかは不明だけれど、気に入られて指名されたようだから働きがいがあるはずだと、武本課長には最後にポジティブなお言葉をいただいた。

 本当にそうだろうか? よくわからない急な人事異動に対して、私はとてつもなく不安になっている。

 だけど異動命令が出ている以上断るわけにもいかず、私は週が明けたらその親会社で勤務を始める予定だ。

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