【11/25書籍発売予定】契約外溺愛 ~呪われ猫伯爵に溺愛宣言されたが、勘違いする乙女心は既にない。……いえ、取り戻さなくて結構です!~
16 欲しいんだろう?
 ウォルフォード邸に戻ると、既に玄関ホールにグレンの姿があった。

 あまりにタイミングがいいので、もしや待機していたのではという疑問が湧いたが、相手は美貌の伯爵で、ここは演技不要の屋敷の中。
 ということは、偶然なのだろう。

 何故かシャーリーが生温かい目でグレンを見て「微笑ましくて気持ちが悪いです」と呟いているが、あれも気のせいだろう。

 そのまま徒歩で屋敷を出ると、街の中を歩く。
 昼間とはいえ人出が多いなと思って辺りを見回すと、その理由がわかった。


「今日は朝市なのですね。どうりでそこら中にお店が出ていると思いました」
「朝? もう昼だぞ?」

 さすがに伯爵は街のイベントのことを知らないらしい。
 不思議そうに聞くグレンが何だか可愛らしくて、ステラは苦笑する。

「そういう呼び名なのです。普段は売っていない商品が出されたり、一般の人も出店できるのですよ。ちなみに、朝から夕方まで開催しています」

「そういうものなのか」
 通りを埋め尽くす店と人で大賑わいだが、見ているだけでこちらの気持ちも楽しくなってくる。

「ステラは、何か見たいものがあるのか?」
「ええと……」

 必要なものと言えば服だが、グレンに色々と贈られたので、今はたくさんある。
 一年後には平民としての服を用意しなければいけないが、今から買っておくのはさすがに気が早いし、邪魔だ。
 あとは筆記用具やノートだが、これもグレンが用意してくれたので十分に足りている。

「……とくにはない、ですね」
「装飾品は?」

「これがありますから、十分です」
 そう言って胸元に輝く赤い星のネックレスを見せると、グレンは数回瞬き、そして口元が緩んでいく。

「そ、そうか。そうだな」
 何度もうなずくグレンと共に朝市の中を進んでいくと、とある店の前で足が止まる。
 店の片隅に置かれたその本の表紙に、ステラの視線は釘付けになった。


「これ、薬草辞典ですよね。三十年ほど前のもので、その詳細な絵は未だに愛用者が絶えないという」
「おや。詳しいね、お嬢さん。私はよく知らないけれど、確かに中の絵は綺麗だよ」
「み、見てもいいですか?」

 店主に許可を得てページをめくってみると、葉脈までいきいきと描かれた絵がいくつも載っていた。
 憧れの本の素晴らしい絵に、ステラの深緑色の瞳が輝く。

「破れてはいないけれど、日焼けと色褪せがあるから。安くしておくよ?」
 確かに店主が出してくれた値は、この本にしては破格だが……それでもステラの薬師の給料のひと月分はする。

 買えなくはないが、一年後には部屋を借りたり服を揃えたりと何かと入用になる。
 それに、この本まで破られてボロボロにされたら、ショックで立ち直れないかもしれない。

「ありがたいのですが……今回は、やめておきます」
 笑みを浮かべながらそっと戻すと、すぐに大きな手が本を持ち上げる。
何だろうと見上げる間もなく、店主に支払いをしたグレンがステラの手に本を乗せた。


「欲しいんだろう?」

「え? で、でも」
 見た目にはただの古本だが、結構なお値段だ。

 もちろん、グレンにとっては大した額ではないだろうが、それにしたってホイホイ買ってもらうようなものではない。
 だが、既に支払いを終えている上に、うっかり受け取ってしまっている。

「グレン様、あの」
「俺を、公衆の面前で婚約者にプレゼントを突き返される、哀れな男にはしないでくれよ?」

 そう言われれば、ステラに返す言葉はない。
 だが、どう考えてもこの本を買ったのはステラのためで、返却できないように言うのもステラのためにだとしか思えない。

 これが演技だからなのか、経費で落としてやろうという優しさなのかは、わからない。
 だが、今ステラにできることは、ひとつだけだ。

「……ありがとうございます」
 心を込めてお礼を言うと、美貌の伯爵は楽しそうに紅玉(ルビー)の瞳を細めてうなずいた。



 そのまま朝市を見て回り、屋敷に戻ったのは薄暗くなる時間だった。
 部屋に戻ると、倒れこむように椅子に座ったステラは大きく息を吐く。

 朝からサンダーソン侯爵邸に行って魔力を使い、戻ってから朝市を歩き回り、そしてグレンの中和を終えた。
 動きっぱなしで魔力を使ったので、さすがに体力も気力も限界だ。

 入浴を済ませたのに何となく寒いのは、疲労のせいだろう。
 本当ならばさっさと寝るところなのだが、それをできない理由が机の上にあった。

 グレンが買ってくれた薬草辞典。
 王立図書館で見かけたものですら数ページ破れた状態だったのに、これは色褪せしてはいるものの破れていないという。

 本来ならばステラが手に入れる術などない、貴重品である。
 そっとページをめくろうとした瞬間、背後からきた風が髪を揺らし、にゃーんという猫の鳴き声が聞こえた。
 扉の隙間からちらりと覗く黒猫を見つけたステラは、思わず苦笑した。


「おいで、シュテルン」

 ステラが手を伸ばすと、待っていましたとばかりに黒猫が駆け寄ってくる。
 それを膝の上に乗せて撫でると、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らす音が響いた。

「本当に撫でられるのが好きなのですね。私もシュテルンのモフモフの毛を撫でていると幸せですよ」

 するとシュテルンは顔を上げ、机の上に飛び乗る。
 薬草辞典の上に前足をちょこんと乗せると、ステラをじっと見つめてきた。

 この家にあったものではないから、匂いが違って気になるのかもしれない。
 爪を研がれては困るのでそっと前足をおろすと、本の表紙を撫でた。

「これはですね、薬草の辞典です。とっても貴重で、王立図書館にも完全な状態のものはないのですよ?」
 説明には興味がないのか、シュテルンはもっと撫でろとばかりにステラの手にすり寄ってくる。

「シュテルンのご主人様が買ってくれました。欲しいんだろう、って」
 ぴたりと動きを止めた黒猫は、赤い瞳にステラを映した。

「演技のためなのか、経費で落としてくれたのかはよくわかりませんが、嬉しいです。……凄く、嬉しい」
 口元が思わず綻び、それを見るシュテルンの頭を優しく撫でた。

「シュテルンの御主人様は、優しいですね。大事にされているのですから、あまり抜け出してはいけませんよ」
 そう言って黒猫を抱きかかえて扉を開けると、ちょうどシャーリーがやって来るところだった。


「ステラ様! また、この破廉恥野郎が侵入したんですね⁉ まったく、ちょっと目を離すとこれだから困ります」

「この子の名前、やっぱりハレンチヤローなのですか?」
 黒猫を手渡しつつ聞いてみると、シャーリーは何やら眉間に皺を寄せて悩み出した。

「ステラ様にそう呼ばれるのも、ある意味ご褒美でしょうか……?」
「ご褒美、ですか?」
 ハレンチヤローという名前はどう考えても微妙なのだが、意外と気に入っているのだろうか。

「まあ、何にしてもこれ以上の騙し討ちは、私が許しません。今夜は部屋に鍵をかけた上で見張りをつけますので、ご安心ください」

 何もそこまでしなくてもとは思うが、それだけの箱入り猫ということだ。
 逆に毎回脱走してくるシュテルンの知能なり技術なりが、凄すぎはしないか。

 シャーリーとシュテルンを見送って扉を閉めると、ステラは再び机に向かう。
 ページをめくるたびに現れる繊細で美麗な絵に、時間を忘れて見入っていた。
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