ファーストキスを奪った責任はとってもらいますと、超美麗魔導師長様に迫られています
 夜会会場の側に馬車が到着し、御者が扉を開けた。ここで横を過ぎる馬車に泥をかけられる確率は約八割。

 たとえ地面が石貼りだったとしても気を抜いてはいけない。

 私は御者に日傘を差し出すと、扉を閉める。

 慌ただしい馬蹄の音が近づいてきた。

 いち、に、さん。

 横切った馬車の車輪が泥を跳ね上げる。

 ほらね。

 運の良い御者は私のために開いた日傘に泥から守ってもらったようだ。

 子爵家ともなると、馬車の止める位置は後ろのほう。準備に時間がかかった上位貴族のご令嬢たちの犠牲になることはよくあることなのだ。このあたりが石貼りだったとしても、どこまでもそれが続くわけではない。

 昨日は雨でぬかるんでいる場所は多かった。車輪が泥を絡めとるには十分な条件がそろっていたのだ。

「マリエルお嬢様、こちらいかがなさいましょうか?」

 御者は申し訳なさそうに泥のついた日傘を見せる。

「それは持ち帰り次第洗って。今日はこちらを使います」

 日傘は太陽から守るばかりではない。私にとって日傘とは戦場の兵士の盾に他ならないのだ。

 馬車の中から二本目の傘を取り出す。何があってもいいように、常に十本は常備してあった。手に取ったのは、白のレースのついた可愛らしい傘だ。

 夜会会場までの短い道のりで、私はその傘をさした。

「おい、マリエル嬢だ。見ろよ、本当に日傘をさしているぞ」
「変わり者だという噂は本当なんだな。夜でも傘をさすなんてさ」

 陰口はもう少しこっそりと言ってほしい。全て丸聞こえだ。でも、そんな言葉が聞こえたからといって、私は傘を閉じるわけにはいかない。

 馬車から会場までの道のりで鳥が落とし物をする確率は九割にのぼる。

 可愛らしい鳥のさえずりが聞こえたそのすぐ後、ボタッと大きな音とともに日傘に僅かな重みを感じた。

 ほらね。

 運に見放されても、ウンは落ちてくるもので。

 夜だろうと、変わり者だと指さされようと、身を守るためには必要なことだ。

 今夜の勝敗は二勝一敗。泥と空からの落とし物は回避できたけれど、エスコートする予定だったお父さまのギックリ腰には勝てなかったのだ。

 私も参加を取りやめるという考えもあったのだが、今日の夜会はお父さまの大切な仕事相手が主催らしく、一人だろうが泥だらけになろうが行ってほしいと頭を下げられた。

 不運な娘を持ったお父さまに報いることはあまりできないので、こういうときこそ一肌脱ごうと、勇ましく屋敷を出て来たのである。

 エスコートもなく、夜なのに日傘をさした変わり者の令嬢、マリエル・セイメスとは私のこと。しかし、今日の私は機嫌が良い。

 いつもなら石と石のあいだに靴のかかとがはまり、転びそうになるという不運が今日は訪れなかったからだ。

 ドレスだと足下が見えなくて、回避が難しい不運の一つ。

 鼻歌を歌いたい気持ちを抑え、会場の中へと入った。

「本日はお招きいただきありがとうございます。父は体調を崩しまして、娘の私だけの参加となりました」
「マリエル嬢、久しぶりだね。相変わらず元気そうでなによりだ。セイメス子爵に会えないのは残念だが、今日は楽しんでいってくれ」
「ありがとうございます。父も本日は参加できないこと悔やんでおりました。私も父に付き添うか悩んだのですが、こちらの絵画が大変素晴らしいので見たほうが良いと言われまして参加させていただきました」
「そうかそうか。君の父君は絵画の良さがわかる男だったね。今度、個人的に連絡をさせていただこう」
「ぜひ、そうしてやってください。父も喜ぶと思います」

 お父さまの顔を立てるために主催に挨拶をすれば、あとは適当に不運を回避して適当な時間で切り上げるだけ。

 変わり者と名高いこの私にダンスを申し込む猛者は、私以上に変わり者か田舎から出て来た無知しかいない。

 今日の主催者は貴族の中でも家格が高い上に事業を手広くやっているせいか、有名人が集まっていた。あそこには公爵家の令嬢、こっちには天使と名高い伯爵家の末娘。たしかこの天使、第三王子が見初めて公開プロポーズまでしたのに、みんなの前で断ったのだとか。

 中央のほうにできた人だかりの中心には、最近名前を聞くようになった商人までいる。商売上手な人のようで、末端の貴族よりも蓄えは多いと聞く。「えげつない商売をする」とお父さまは嫌っていた。

「オルガ様がいらっしゃるわ!」
「今日も素敵。ダンスに誘っちゃおうかしら?」

 騒がしいと思えば、会場の隅に今をときめく魔導師長――オルガ・メルテ・セーミット様までいるじゃない。二十五才という若さで魔導省の長官にまでなった天才だ。

 白銀の髪にひやりとするほど冷たいスカイブルーの瞳。氷を更に凍らせたのではないかと思うほどの冷たい空気感。人形のように整った顔立ちのせいかとても目立っていた。

 彼は魔導省に勤める役人ではあるが、現王妃の甥でもある。三男で爵位自体は持っていない。しかし、国王の覚えめでたい彼は、いずれ爵位を賜るだろうと噂されていた。

 美形で天才、家柄も問題なし。もちろん人気者だ。しかし、浮いた話を聞いたことはなかった。堅物だと噂だけれど、魔導にしか興味がないとも聞く。

 アタックして粉々になった人の話は両手では数えきれず、両足も使いたいほどだとか。

 今日は近づかないほうが良い人が多いわね。目立つ人が多ければ多いほど、私の不運は高まるような気がしているからだ。

 目の前の女性の手に持つワイングラスを見て、私はそそくさと場所を移動した。

 不運を回避するには、この先の不運を予測しなければならない。

 夜会会場で起りやすい不運その一は、ワインをかけられるだ。

 ワイングラスを持った女性は、自分のドレスの裾につまずいたのか、ふらっとよろけ、手にあったワイングラスを落としてしまう。

 ほらね。

 その場所はちょうど私が立っていた場所だ。三勝一敗。今日の私は冴えている。

 誰かにワインがかかることはなかった。手にしていた女性も、幸いドレスを汚すこともなく、怪我もない。

うらやましい。「ドレスにつまずいて転びそうになってワイングラスを落とした」時点で不運だと思う人もいるだろう。しかし、それは違う。私がワイングラスを持った日には、転んで零した先には、気位の高い侯爵令嬢。しかもそのドレスは婚約者に贈ってもらった最高級品。というような不運が待ち構えているはずだ。

 夜会では絶対にワイングラスは持たないと決めている。

 軽食が置かれるような場所は危険だから端のほうに移動しよう。

 次はワイングラスをトレイに乗せて歩く侍女。あれはとても危険だ。頭からワインを浴びる可能性がある。彼女が不運体質を少しでも持っている場合、相乗効果が期待できるのだ。期待してないし、できれば幸運であって欲しいのだけれど。

しかし、離れる前に侍女の足が変な方向に曲がるのが目に入ってしまった。

 今転べば、直線に距離にいる私はワインの洗礼を浴びることになるだろう。慌てて背を向けるために振り返る。しかし、不運というのは隙をついてくるもので、ドレスの裾が靴のヒールに引っかかった。

 倒れかかった先には大きな影がある。最悪だ。きっと相手は高貴な身分に違いない。諦めた私はキツく目を閉じて不運に身を任せたのだ。

 慰謝料はいかほどかしら――……。

 ダンスをするほどに密着した二人は、床へと倒れていく。目を閉じていてもそれくらいは分かった。頭で言い訳を十種類くらい考え、素直に謝るのが得策と結論づける。

大きな衝撃とざわめき。次いで訪れたのは温かな唇の感触。

え……?

それはなんとも柔らかく。感じたことのない感触だった。プティングのような甘さはないが、そこはかとなく芳しい香り。

私はゆっくりと目を開けた。そして、後悔することになる。目の前に広がるスカイブルー。氷のように冷たい瞳は私を一瞬のうちに凍らせた。

「……そろそろどいてくれないか?」

 麗しい男は声まで麗しいようだ。ヴァイオリン奏者もびっくりの心も震えそうなテノール。

 辛辣な言葉でさえ、どことなく引き寄せられる不思議な音色。

「す、すみません……!」

 私は逃げた。体面を気にする暇などない。相手は今をときめく魔導師長様だったのだから。

「君っ!」

 麗しいテノールが私を呼び止めたのは知っている。しかし、あの場に残る勇気はなかった。頭を床に擦り付けて謝るのが正解だとわかっていても、転んだ先で魔導師長オルガの唇を奪ったという事実を突きつけられ動揺していたのだ。

 あの会場にいる全ての女性を敵にした……。いや、この国の貴族全員が私のことを敵だとみなすかもしれない。

 こんなことなら、自らワインを頭にかけたほうが幸せだった。

 ああ、無常。終わったことを悔いても仕方ない。神様、憐れな仔羊をお救いください。

 満月に向かって手を合わせる。日傘をさすのも忘れた私の額には、空から贈り物が降ってきた。
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