シュルリ、シュルリ、シュルリ。
 蛇に似た何者かがうごめく音がした。はじめに耳たぶに触れ、好悪を越えた反応が背筋を走った途端、隙を見つけて腕や脚に絡んでくる。紺色のスカートやブラウスの襟の内に粘り気を帯びた何かが滑り込んでくる。年齢の割に豊かで、綺麗に上向いた胸の膨らみや、高い位置でまとまった尻の丸みを這い回る。
 この狭い路地のどこかに、何者かが潜んでいる。宵の明星を目指して飛ぶような、カラスの羽ばたきを目で追っている間にも、どこかから現れようとしている。
 少女……翼はローファーの底でアスファルトを踏み、すぐ先の丁字路で左右を見た。ただ、ブロック塀の間に道があるばかりだった。試みに一番近い民家の門を覗いてみた。格子戸を嵌め込んだ玄関口が見えたが、一寸の隙間もなく閉じているので、屋内の様子までは分からない。
 シュルリ、シュルリ、シュルリ。
 町中であるにもかかわらず、自動車のエンジン音が絶えていたので、その音が耳についた。
 遠退いているのか、かえって近付いているのか。個としての存在があるのか、それとも広範囲に及んで影響を及ぼしているのか。
 どうにも超常現象めいていたが、時に人知の及ばない部分があるのも自然である。それを発見した時、常識は覆る。例えば、自転や公転である。天動説が絶対であった時代においては非常識であり、反宗教的であったが、その間にも全世界の生物に何らかの影響を与え続けていた。
 この音もまた、その類であったとすればどうだろう。
 あり得ないと断言出来るだろうか。異界への関心が募り、他人には説明しきれない感覚と感情が渦を巻き始める。
 とはいえ、それを口に出しては嘲笑を買いかねない。翼はただでさえ、学校の同級生達から電波眼鏡と呼ばれている。
 休み時間になる度、教室の隅で文学小説のページを捲っている姿が、流行りもの好きの少年少女にとっては付き合いにくいのだろう。彼女達の視点にもとづくと容姿も典型的な根暗だった。頬が丸く目鼻立ちが控え目で、やや癖のある前髪を長く伸ばしている。
「顔はロリロリ、おっぱいボイン。とはいえ、やることなすことアレだから、変な奴しか寄ってこないだろうなぁ」
「別にいいじゃん。あいつも変な奴なんだから。お似合いだよ」
 俗な見解と子供染みた物腰が露骨過ぎて、まともに相手をする気にはなれなかった。この変に賑やかな教室の光景に比べると、この路地裏で異界の扉に耳をつけ、中の様子をうかがっていた方が余程、心地がよかった。
 シュルリ、シュルリ、シュルリ。
 二つ先の角を曲がり、古びた日本家屋に足を踏み入れた時、奥から聞こえてきた。
 艶の失せた縁廊下を歩き、障子戸を開ける。ふだん、寝間として使っている一間だった。八畳の和室に文机と鏡台、桐箪笥を持ち込んである。床の間の違い棚に文学全集や文庫本が並んでいるのは、書架として使っているからである。
 学校帰りの為か、翼は疲れていた。鞄を下ろし、ブラウスのボタンを一つずつ外していく。
 Tシャツとショートパンツに着替えてから、隅の座布団を丸めた。枕にするつもりでいた。暑い季節なので、なるべく日の光があたらない場所を選び、横になると倦怠感に視界がぼんやりとし始めた。ただ、境界ばかりがはっきりしていた。
 縁廊下から光が差し込んでいるのだが、軒の建具にさえぎられて一部しか届かない。畳に落ちた光も翼の下には伸びてはこなかった。
 少しずつ色がくすみ、ついには屋内の影にまぎれてしまう。
 網戸の外に薄闇の帳が降りつつあった。庭木の枝葉が影と化していた。その色が周囲を冒していくように、おもても内も色が濃くなっていく。
 屋内の灯りを点けていなかった所為だろうか。視界が真っ暗になっただけではない。翼自身の存在が異界に呑み込まれてしまった……かのようで、あのシュルリ、シュルリ、シュルリがいつになく、はっきりと聞こえた。
 それは翼の求めに応じたのか、異界の在り方なのか。
 仮に空間の境を越えてしまったのだとすれば、元いた世界の物理法則は通用しないだろう。例えば、上下の区別をつけにくい。頭の方向でその違いを決めているのだが、まず、重力が働いていない。天体が見えるわけでもない。
 じょじょに判断が曖昧になっていく中、自身の五感によって自我を保とうとした。
 ふだんよりも強く、蛇を感じたのは頼るべきものを探すべく、神経細胞の一つ一つが反応した為ではなかったか。
 それは腕や脚に巻き付き、鎌首をもたげて這いまわる。胴を目指す。ショートパンツの裾に入り込み、ついにはパンティの内に到る。Tシャツの内では薄い腹回りに巻き付き、下着のカップを引きずり下ろす。
 シュルリ、シュルリ、シュルリ。
 蛇の動きはすべてその音を伴っていた。粘液を分泌しながら豊かな膨らみに絡みつき、乳首を擦り上げてのシュルリ、シュルリ、シュルリ。脚の間に落ちた影を掻き分け、深淵への入口をなぞってのシュルリ、シュルリ、シュルリ。
 蛇が動いたから音がするのか、音がするから蛇が動くのか。
 忠実に物理学をなぞるならば、前者と言い切れるかもしれないが、この空間の法則に則っているとは限らない。音が主であり、運動が付属している可能性もある。
 耳に入り、鼓膜を震わせ、神経の隅々に行き渡る信号と化す。その反応が起きた時、激しくうねった蛇が身体の中に入り込んでくる。
 翼が背を逸らし、目元に涙を浮かべながら痙攣するのもシュルリ、シュルリ、シュルリの為だった。触覚による事象ではない。官能が掻き立てられ、身体の最奥から蜜が溢れ出す。大小の蛇に絡む。
「ひっ、あああっ」
 その悲鳴が翼の下に戻ってくる。最果てなどなさそうな空間ではあるが、時空が捻じ曲がり、終点と始点を繋げているのかもしれない。かん高い声が震え続けていた内部の状態と合わさる。発生した熱によってハラワタが溶け、渦を巻く。
 シュルリ、シュルリ、シュルリで、脚の間に潜り込んでいた数匹の蛇がらせんを描くようにうごめく。掻き回しているのか、掻き回された結果なのか。最早、疑問を抱く余地もなく、瞬時に結論を出した翼は更なる悲鳴を上げた。
「ひっ、あああっ」
 腹の中が崩れてしまいそうだった。へその周りや腰にひびが入った。卵のように割れた時、何十匹もの蛇の頭が飛び出してきた。入り込んできた数匹と結び付いた卵子が、子宮内で細胞分裂を繰り返し、異形の子孫と化したのだろう。
 それらは翼の身体を中心として枝のように伸び、無に近かった空間に意味を与える。一匹ずつが関連性を持つことで宇宙を作り出す。
 それが壊れてしまえば、次の宇宙の種を撒く。とはいえ、本当の意味での無は有に繋がらない。少女は無数の宇宙の母体となる宿命を背負っていた。
 人間として日常生活を送る翼、状況を呑み込めず、戸惑っていた翼。そのすべてが一瞬の内に過ぎ去っては再び現れる。そこには、その後の人生も含まれている。いつか読んだ物語では、宇宙そのものになった時点で主人公は人間でなくなってしまったが、実際はそこまで単純ではない。
 結婚、出産を経験し、最後には老いて死ぬ。そんな時間も流れているらしく、自分が人間なのか、宇宙なのか、明確に出来なくなった瞬間、目が覚めた。
 真っ暗だった。何が起こったのか、しばらくの間は理解出来なかったが、横になっていたのを思い出した。
 半身を起こし、片膝を立てて抱えた。腰を上げて手を伸ばし、探っていると指に糸が絡んだ。摘まんで引くと天井の灯りが点った。どうということのない自室の八畳間だと確認した時、翼はため息をついた。
 へその下に違和感があったので、その所為かもしれない。外から熱を注がれたかのようだった。ショートパンツの生地越しに触れた時、あの音がした。
 シュルリ、シュルリ、シュルリ。
 庭からだった。縁廊下に出て、網戸を開けると屋内から漏れた光に灰色の庭土と木々の幹が浮かび上がっていた。他人にとっては変哲のない夏の夜かもしれないが、翼は視覚以外の感覚で這いまわる蛇の動きを捉えていた。
 心臓が大きく脈打って、血流が速くなる。身体の中に変化が起きているのはたしかで、夕立の前らしく遠雷が響く中、冷たい風が吹いているというのに、高まる熱を抑えきれなくなった。
 呼吸を繰り返しながら襟を摘まみ、空気を入れたが、楽にはならない。蛇の存在が支配をもたらしているのか、腹の内で衝動の嵐が吹き荒れているのか、翼はTシャツを脱いで座敷に放った。
「熱いよ」
 と、ショートパンツを膝に下ろし、足を抜きもした。ブラジャーのホックを外す。豊かな谷を作っていた二つの膨らみが左右に開き、弾けるように上向いた。青白い光が走り、轟音が近隣一帯を震わせた時にはパンティすら身につけていなかった。
 大粒の雨が降ってくると沓脱石に爪先を下ろし、土が泥と化しつつある庭に跳び下りた。ふくらはぎに飛沫を浴びつつ、墨を流したような空に涼を求める。青白い光に肌が浮き上がる中、手で胸に円を描き、へその下を擦り上げて身体を冷まそうとする。
 やがて雨が上がり、雲が割れて月が覗いた。
 淡い光を浴びた翼であるが、頬にはりついた髪の一筋を払いもしなかった。熱の影響を受け続けていたばかりではない。狂乱に似た雨中の行為に精力を使い果たしていたからで、膝の力が抜けるなり、崩れ落ちた。
 脚を広げて仰向けになる。跳ねた泥が肌を汚し、丸みに沿って流れた。
 シュルリ、シュルリ、シュルリ。
 シュルリ、シュルリ、シュルリ。
 なおも聞こえる音に微笑む。おかしかったのではない。蛇による官能が恍惚を生んでいた。
 シュルリ、シュルリ、シュルリ。
 シュルリ、シュルリ、シュルリ。
 で、少女は再び、宇宙の成り立ちに到る……。

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