偽装結婚のはずが、天敵御曹司の身ごもり妻になりました
夕食の時間を過ぎ、入浴を済ませても彼は帰宅せず、玄関ドアが開いたのは午後九時半を過ぎていた。


「お帰りなさい」


「ただいま、遅くなってごめん」


出迎えた私に、彼は申し訳なさそうに眉尻を下げて言う。


「どうして? 仕事だもの、謝る必要はないのに」


「でも今日はずっと一緒にいたかったんだ」


そう言って、彼は玄関前の廊下に立つ私をそっと抱きしめた。

外の香りに混じっていつもの彼の香りを感じ、ただそれだけで胸がいっぱいになった。

当たり前のようにこの場所に帰ってきてくれる、それがなによりも嬉しい。

その後、落ち着かない気分でリビングのソファに座り込んでいると、入浴を済ませた彼がやってきた。

ずっと緊張し通しの私とは裏腹に、普段と変わりない様子で冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを口にしている。



私はこんなにもドキドキしているのに、なんでこんなに余裕なの?


もしかして寝室を一緒にっていうのは、冗談?


今日一日何度も自問自答した疑問が頭の中をぐるぐる回る。

いい年をして動揺しすぎだと思うのに感情をコントロールできない。


「藍」


「な、なに」


ふいに名前を呼ばれて肩が跳ねる。


「緊張しすぎ。でも可愛いな」


クスクス声を漏らして私を見つめるその姿は、お風呂上がりのせいかいつもよりも色香が濃く漂っている。


「……一緒に寝室に行こう」


そう言って、目の前にやってきた彼が私に手を差し出す。

恥ずかしさとほんの少しの戸惑いに心が揺れ動く。

それでも大きな手にそっと自分の指を乗せると、ギュッと握り返された。
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