心の刃 -忠臣蔵異聞-
第1章 止戈為武
           一             
            
 人里離れた山中、カラスの鳴き声が不気味に聞こえてくる。そこはまるで人との関わりを絶っているかのように鬱蒼(うっそう)とした木々に囲まれていた。
 山の斜面を二十代半ばの旅の武芸者が登っている。数日間、何も食べていない空腹感と山中を彷徨っている疲労感で体は限界にきていた。額から流れる汗が時折目に入り、旅の武芸者の視界を遮る。木々に覆われた斜面は日の光が届かぬせいか湿気ている。やわらかい土壌は足を取られやすく、歩く度に体勢を崩し膝をついてしまう。
 日は暮れはじめ青々とした緑に覆われていた山が、暗い惣闇色にゆっくりと変わっていく。旅の武芸者は疲れた体に鞭を打って斜面をさらに登って行った。遥か山の向こうから狼たちの声がこだまする。
― まずいな。どこかで休める場所を見つけなければ・・・。―
 登っては降りてを繰り返し、旅の武芸者はやっとの思いで沢へとたどり着いた。
 直ぐに乾いた喉を川の水で潤し、汗で失った水分を補給する。一日中彷徨い歩いた体は疲労困憊だった。岩に手をついて這いつくばりながら一時の休憩場所を探していた。
 自然が作り出す造形美は、時として人間に牙を剥く。浸食によって出来た岩々の先端は、刃物のように旅の武芸者の体を傷付けていった。
漸く人が体を預けられそうな窪みを見つけ、よろめきながらその場に座り込む。そして、その窪みに体を預け、氷のように冷たくなった岩肌に背中を付けた。天を仰いで星を見ようにも、鬱蒼と生い茂る木々によって遮られていた。
休息の場所を見つけ気が抜けた途端、旅の武芸者は猛烈な睡魔に襲われ眠りに落ちてしまう。朝を迎えるまで休息を取ろうとした場所だったが、付近の不穏な空気に気付いて目を覚ます。
 森の中から数匹の狼が旅の武芸者を狙って姿を現した。まだ奥にも数匹潜んでいるようで暗闇の中から唸り声が聞こえてくる。旅の武芸者は刀を手に取り臨戦態勢に入った。岩を背に休息していたため、退こうにも退けぬ状態だった。狼たちは次第に距離を縮め周りを囲み近づいてくる。
― このままでは奴らの餌食になっちまうな。―
 静かに刀を抜いた旅の武芸者は、自分を狙う狼たちに全神経を傾ける。
― 来るなら来い。相手になってやる。―
 旅の武芸者は覚悟を決め、刀を正眼に構え目を閉じた。左に三匹、右に二匹、正面に二匹という具合に気配を感じ取る。狼は唸り声を上げながら、旅の武芸者との距離を更に詰めていった。そして、正面の狼が唸りをあげ旅の武芸者へ一気に飛び掛かる。
 正面から襲い掛かってきた狼へ、旅の武芸者は上段から斬り下ろした。狼はその刀を紙一重で避け、俊敏な動きで体制を整え再び牙を剥いた。旅の武芸者が構える刀に注意を向けながら狼はまた距離を詰める。旅の武芸者を囲む狼たちの声が強くなり、前方の二匹が牙を剥き出しして飛び掛かる。
 その時、暗闇の中から一人の山人が旅の武芸者の前へ躍り出て来た。その山人は旅の武芸者を狼たちから庇いながら、気合一閃で襲い掛かる五匹の狼たちを跳ね返した。山人の気合で弾き飛ばされ狼たちが岩肌をのた打ち回る。
 だが今度は、左右の狼たちが牙を剥いて襲い掛かる。しかし、またしても山人が放つ気合で狼たちは残らず弾き跳ばされていく。
「刀は必要ない。納めておけ!」
 狼に襲われるという恐怖で、旅の武芸者には山人の声が届かない。
「しっかりせい!」
 山人の平手打ちを受け正気を取り戻した旅の武芸者は、言われた通りに刀を鞘に納めた。山人の気合によって弾き飛ばされた狼は、諦めたように沢から退散していった。自然界の掟ともいうべきか、自分より強い者に遭ったとき本能でそれを感じ潔く諦めて退散していくのである。
「この山の沢で休息など、無知にもほどがある。」
 山人は振り返って旅の武芸者に話をした。
「危ないところを助けて頂き・・・。」
 旅の武芸者が礼を言う間もなく、山人は踵を返し立ち去って行った。
「少しお待ちを!」
 旅の武芸者は懇願するように声をかけた。
 左程大きな声でもなかったのだが、山人は旅の武芸者に振向いた。
「何か用か?」
「狼たちに放った技、もしや・・・すくみの術では?」
 山人は無言のまま旅の武芸者を見つめている。
「・・・間違いでなければ、二階堂平法/心の一方。」
「・・・お主、武芸者か。」
「はい。無外流を学びました。」
「剣術修行の途中か。」
「はい。」
 それから二人は対峙したまま言葉を発することなくその場にいた。長い沈黙は闇夜の森の音を際立たせ、恐怖が全神経を襲っていた。
「・・・お主、何故強さを欲する。」
「強さですか?」
「そうだ。剣術を学ぶということはつまり、そういうものを欲するのではないのか。」
「はぁ・・・。」
 旅の武芸者は山人の問いに、ふと考え込んでしまう。
 山人はその姿に拍子抜けしてしまう。
「なんだお主は、強さを欲するために剣術を学んでおるのではないのか?」
「強うなりたいとは思いますが、そればかりではありませんので・・・。」
 そう言うと旅の武芸者は再び考え込んでしまう。
 山人は自分の事をそっちのけで考え込んでいる旅の武芸者を暫く見つめていた。
―なんだ、この男は・・・。―
 山人は旅の武芸者の態度に拍子抜けしまっていた。剣気とまではいかないまでも、それなりの威圧を込めて話をしたつもりであった。しかし、目の前にいるこの旅の武芸者は臆することなく、また気にするでもない態度で考え込んでいる。
―なんとも人を食った態度じゃ。これから教えを請おうというのに、今はそのことを忘れ必死に考え込んでおる。―
 旅の武芸者の様子に山人は思わず笑みがこぼれる。
 旅の武芸者は山人の様子の変化に気付いた。
「これといった大きな理由ではないのですが・・・。」
「訳もなく剣術を学んでおるというのか。」
 滅多に他人に興味が湧かない山人が、いつの間にか身を乗り出していた。
「いえ。・・・ただ、今ふと兄の教えを思い出したもので・・・。」
「お主の兄か。」
「はい、武芸とは、争いを止めるためと教えていただきました。」
「ほう・・・。」
「何でも武芸の武とは、戈を止めるところからきているのだとか・・・。」
「それは、止戈為武(しかいぶ)という言葉だ。春秋左氏伝の中にそれが記されておる。」
 山人の顔が険しくなった。
「私にはまだその本来の意味がよくわかりませぬ。武芸の鍛錬を積めばその意味が理解できるのではないでしょうか。」
 山人の口元が僅かに緩む。
「それはどうかの・・・。」
「あ、それから・・・。」
 山人は他に何を話すのかと怪訝な顔をする。
「私には良きも悪しきも同じ釜の飯を食った町の仲間がおります。その者たちを、鍛錬を積んだ武芸で守ってやりたい・・・そう思うております。」
―春秋左氏伝の一説を論じると思えば何とまぁ、稚拙な物言いをよくもぬけぬけと・・・。―
 山人は馬鹿馬鹿しくなっていろいろと詮索するのを止めた。
そして、大きなため息をついた。
「いかにもお主の申す通り、あれは二階堂平法(にかいどうへいほう)心の一方(しんのいっぽう)。」
「で・・・では、あなた様は松山主水(まつやまもんど)様の高弟。」
 山人は黙って頷いた。
 松山主水は、二階堂平法の創始者である。松山主水は、豊前小倉藩の藩主/細川忠利に剣を指南し御鉄砲頭衆として五百石を給されていた。
 藩主/忠利は柳生宗矩の門人でもあったが、主水の手ほどきを受けてから急速に剣術が上達した。宗矩と試合しても勝ちを取るほどにまでなったという。
しかしその後、豊前小倉藩内の勢力争いに巻き込まれ暗殺されたという。以後、二階堂平法を伝えるものとてなく途絶えたといわれた幻の剣術であった。
「無理を承知でお願いいたします。私に二階堂平法をご教授いただけないでしょうか。」
 旅の武芸者の言葉に山人の口元が僅かに緩んだ。
「よかろう、ついて参れ。」
「はい。」
 旅の武芸者は山人の言葉に勢いよく返事をしたものの、疲弊した体に歩く体力は残っていなかった。後を追おうと一歩踏み出した瞬間、その場に倒れ意識を失ってしまう
「なんとも可笑しな奴よ。」
 山人は旅の武芸者を担ぎ、夜の闇へと消えて行った。

                  二
             
 そこには、ひっそりとまるで小鳥の巣のような小さな小屋が建っている。
 小屋の周囲を鶏が放し飼いにされていた。
 その小屋の外側に、釜戸で使用するであろう薪が幾つも積み重ねられている。小屋の周囲は木々に覆われ屋根は少し傾いていた。
 その小屋から一丁ほど離れたところに小さな滝があった。二人の武芸者がその滝の側で、真剣で立ち会っていた
 飛び散る水の飛沫が、僅かな光の粒となってこれから始まる事への神秘さを際立たせる。
 二人の武芸者のうち師のような白髪交じりの初老の男が、弟子のような武芸者に何かを伝えようとしていた。
「あの日から、よくここまで精進して参ったの。」
「はい。」
「奥義の伝授は既に終えておるが・・・。」
「はっ。」
 弟子が覇気のある声で答えた。 
「今から其方に伝授するのは我が流派の秘奥義である。」
「秘奥義・・・。」
「絶対不敗の剣だ・・・。」
「はい・・・。」
 師から放たれた秘奥義の言葉に弟子は思わず唾をのみ込む。 
「我が師、松山主水もこれと思うた人物でなければ伝えることは許さぬと申されたほどだ。」
 弟子はその言葉の重みから、次第に体が震えてくるのを感じていた。
 本能から来る恐怖というものを生まれて初めて感じていた。
「争いを止めるため、また和を乱すものを絶つために使うのじゃ。決して己の力を欲するために使うてはならぬ。」
 師の目つきが一層鋭くなって弟子を見つめた。
「はっ。」
「伝えずに、このワシと共に朽ち果てるものかと思うたが・・・。其方なら、きっと良きことへ使うてくれると思う。」
「必ず。」
 師である男は、弟子の心に秘めている熱い思いを感じ大きく頷いた。
「そして更にもうひとつ。この秘奥義は、道を極めし武芸者に相対した時のみ使うのじゃぞ。乱用すれば其方の体に何倍もの負荷がかかる。肝に銘じておけ、よいかっ!」
 弟子は師の言葉の重圧に全身から汗が噴き出した。
 そして本能が師の発する剣気を敏感に捉え、四肢を震えさせていた。
「それでよい。死の恐怖を忘れてはならぬ。」
「はい。」
「死の恐怖を極限まで感じるのだ。」
 強く頷いたが声にならない。
「そして死への恐怖に打ち勝ち、生きるという活路が見いだせた時、奥義への道が開かれる。」
 師は静かに逆手で刀を抜き、そのまま上段へ構える。
「ワシの動きを目で追うでない。心で感じよ。」
「はい。」
 師の剣を追う弟子の目が鋭くなる。
「では参るぞ。」
 師である男は動きを止め、弟子に対して不敗の剣を構えた。
「こ・・・これが、秘奥義。」


        
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