心の刃 -忠臣蔵異聞-
第10章 大石暗殺
                 一

 内蔵助の動向は、国中が見守っていた。藩主が切腹の沙汰を受け、その上統治していた領地も奪われた赤穂浪士たちへの同情は次第に高まってきていた。
 内蔵助に義央を討たれては幕府の威光に傷がつくため、側用人/柳沢(やなぎさわ)吉保(よしやす)は柳生家に内蔵助暗殺の命を下そうと兵衛を柳生家に差し向けた。
 吉保の命を受け兵衛は、愛宕にある柳生藩上屋敷を訪れていた。大石内蔵助暗殺の見届け人として使わされているのである。
 藩主/俊方(としかた)が現れ、兵衛は深々と頭を下げた。
「俊方である。面をあげるがよい。」
「石堂兵衛と申しまする。此度は吉保様の名代として参上仕りました。」
「吉保殿の御内意は、存じおるゆえ安心いたせ。」
「いえ、それが安心できませぬ。」
「どういうことじゃ。」
「秀忠公ならびに家光公にお仕えなされた頃の柳生家なら安心もできまするが・・・。」
「何?」
 俊方の顔が険しくなり兵衛を睨む。
「この時勢において、果たして以前と同じお働きが出来るかと・・・。」
 側に控える家老たちが一斉に脇差に手をかける。
「控えい!」
 俊方の声が室内に響き渡る。
 家老たちの手が脇差から離れ、兵衛を睨みつける。
「兵衛と申したな。」
「はっ。」
 裏柳生頭領/柳生(やぎゅう)又八郎(またはちろう)が兵衛に声をかける。
「吉保様の後ろ盾があるからというて、そのような物言いを許す柳生ではないぞ。」
「では、どのようになさるおつもりでございますか?」
 又八郎は静かに脇差に手をかけ姿勢を前屈みにする。
「又八郎!」
 俊方が声高に又八郎を制する。又八郎は、浮かした腰を元に戻し座り直した。
「その気概、大石を殺るときまで温存されるがよい。」
 睨みつける又八郎に兵衛は不敵な笑みを浮かべている。
「何!」
「一つお伺い致しまする。柳生家では大石内蔵助、どのような人物とお考えでござりまするか。」
 列挙している家老は、兵衛の問いに沈黙している。
「御存知なければ教えて進ぜましょう。剣は東軍一刀流免許皆伝、軍学は山鹿流を学んでおりまする。」
 ふてぶてしい兵衛の態度に、耐えられない一人の家老が口を開いた。
「その程度の情報ならば、我等とて存知おるわ。知らぬなら我等からも聞かせて遣わすが、その大石は赤穂藩では昼行燈と呼ばれておるそうな。」
「さようでござりますか・・・。」
「そのような者、我ら柳生にとって赤子の手を捻るようなものよ。」
 家老の言葉など気にも留めぬとばかりに兵衛は鼻で笑って見せた。
「何が可笑しい!」
「これは御無礼を・・・。」
 列挙している家老たちは皆怒りに打ち震えていた。
「非凡を装う凡人などは恐れるに足りませぬが、凡庸を装う男ほど恐いものはござりません。それがわからぬ柳生様ではござりますまい。」
「大石という男、それほどまでの人物と申すのか。」
 俊方は兵衛の顔を凝視して呟く。
「では、そろそろお暇いたしまする・・・。」
 笑みを浮かべながら、兵衛は俊方の前から去って行った。
「殿。何故、お止めなされた。」
「又八郎。お主ほどの男が、怒りで目を曇らせておるのか?」
「な、何!」
「良くて相討ち、いやワシの目が確かなら又八郎とて敗れていたはず・・・。」
 吉保の命を受けた柳生俊方であるが、内心は承服しかねていた。大名の改易やお取り潰しは、幕閣の関与が取り沙汰されている。此度の刃傷事件、赤穂藩お取り潰しも例外ではないはずだった。
 同じ小藩としての境遇から、俊方は長矩に対して同情していたのだ。しかし、小藩である柳生藩も吉保に睨まれたら、将軍家剣術指南役とはいえ赤穂藩のように潰されてしまう。本意ではなくとも、柳生藩の存在意義を示すためには受けなくてはならぬ意向だった。
 又八郎は、吉保の一方的な命令に憤りを感じていた。
「殿。たかが側用人ごとき輩の命など、何故お受けなされた!」
「あの男は、最早ただの側用人ではない。今、あの男に目を付けられたら柳生藩など一たまりもないわ。」
 俊方は苦渋の決断で、裏柳生に内蔵助暗殺の命を下す。
「柳生藩存続のため、大石内蔵助の命、貰い受けて参れ!」

                二  

 調達屋では多都馬の出立の準備に店中てんてこ舞いになっていた。店の隅で一人不安気に座り込んでいる須乃を見つけ多都馬は話しかける。
「何も案ずることはない。長くても二、三ヶ月で帰って来る。」
 多都馬の言葉も耳に届かないのか須乃の返事は帰ってこない。
 長兵衛の妻/おみよが近づいてきて声をかける。
「須乃様。うちの亭主や三吉も一緒なんですから、何も心配いりませんよ。遊びに行くわけじゃなし、立派なお役目なのですから・・・。」
 だから心配なのだと須乃は言いたかった。
 支度も済んだのか長兵衛や三吉も須乃を取り囲むように集まって来る。
 三吉は、持ち前の明るさで須乃を元気づけようとおどけて見せる。
 そうした中で長兵衛が多都馬を、須乃から離れたところに誘う。
「多都馬様。ちょっとよろしいでしょうか?」
 長兵衛の後を追って裏庭の隅に行く。
「多都馬様。お聞きしたいことがございます。」
「何だ?」
「多都馬様は、私に何か隠しておいでですね。」
「急にどうしたというのだ?」
「いえ。須乃様をご覧になる多都馬様の様子が、ちょっと気に掛かりましてね。」
「・・・。そうか、わかるか?」
 多都馬は長兵衛の洞察力に観念した。さすがは江戸中の口入れ屋の元締めである。
「何かキナ臭いお役目なのでしょうか。」
「まぁな。」
 やはり思った通りだと、長兵衛はため息をついた。
「一度、侍勤めをお辞めになった多都馬様がおかしいと思いましたよ。」
「そうか・・・。」
「須乃様も、そのあたりをお感じになったのではありませんか?」
 多都馬は裏庭の隅から須乃を見つめると後ろめたい気分になった。
 多都馬の視線の先に、おみよと三吉に慰められて笑顔を取り戻していく須乃が見えた。
「実は大石の監視だけではないのだ。場合によっては斬れとの御下命だ。」
 幾多の修羅場を潜り抜けた長兵衛も流石に驚いていた。
「すまぬ。」
「水臭いじゃありませんか。」
「お主たちを危険な目に遭わせはせん。」
「そういうことじゃありませんよ。」
 長兵衛が懐の深い優しい顔で笑う。
 長兵衛の笑った顔で言いたいことの全てを多都馬は悟る。
「しかし、なんだってそのような事をお引き受けなされたので?」
「うん。」
「堀部様との板挟みでお辛くなるんじゃありませんか?」
 腕組みをして多都馬が答える。
「そこだ。安兵衛には道を外してほしくはない。」
 おみよは真剣な面持ちの多都馬と長兵衛を見て、須乃の視線を自分の体で何気なく遮る。
「大石内蔵助という男、筆頭家老の身なれば思慮深く行動するはずだが・・・。もし、短慮に走り安兵衛は勿論、他の者たちへ害を及ぼすものなら斬らねばならなくなる。」
「そうならねぇことを願うばかりで・・・。」
「そうだな。」
 多都馬は僅かに微笑んだ。 
「ところで大石様って御人は、そんなにお強い方でございますか?」
「わからぬ。」
「御本家様が多都馬様を雇われなされたぐらいだ。それなりの御方なのでございましょう。」
 多都馬は、まだ会ったことのない大石内蔵助の人物像を想像していた。

                 三

 上杉綱憲は、甲府藩主/徳川(とくがわ)綱豊(つなとよ)の下屋敷に能楽見物のため招かれていた。
 そこには無類の能楽好きだった水戸藩主/徳川(とくがわ)綱條(つなえだ)もいた。
 綱豊は綱憲を座敷へ呼び、料理や酒を大いに振る舞った。綱憲の傍らには色部(いろべ)又四郎(またしろう)も控えていた。
「綱憲。如何であった。」
「はい。動かぬように見えるその演技は幽玄さと美を兼ね備え、時が過ぎるのを忘れるかのようでござりました。」
「左様か・・・。」
「綱憲。武芸も良いが能も奥が深うて面白かろう。」
 綱條が酒を飲み干しながら上機嫌に話す。
「能も良いがの・・・。余は少し気が掛かりな事があるのだがな。」
「どのような事でござりましょう。」
 綱憲は持っていた杯を膳に戻した。
「お主の父は吉良上野介だそうだな。」
 綱豊が切り出した時、色部又四郎は一瞬動きを止めた。
「はい。我が父にございます。」
「では、今も心配で堪らぬであろう。」
「子として心配ではござりまするが。刀の扱いを知らぬ内匠頭のおかげで軽傷で済みました故、回復も早く安堵しておりまする。」
「それは、祝着じゃ。」
 心がこもらぬ言葉は、相手にまるで響かない。綱憲の横で色部又四郎の顔が僅かに歪む。
「ところで余も此度の事は気にかけておっての。先日、余の家臣/間部(まなべ)を遣わせ上野介の様子伺いをさせようとしたのだ。」
 綱豊は腰に差していた扇子を取り出し、色部又四郎に向ける。
「ところがな・・・側に控えおる、そちの家臣/色部又四郎にそのまま帰らされたのだ。」
 驚いた綱憲は振り返って色部又四郎を見る。
「何か不都合でもあったのか?」
「色部。真か!」 
「はい。」
 色部又四郎は平伏して答える。
「色部、余が許す。直接申すがよい。」
― おのれ。どうしても上杉家を巻き込む所存か。―
 色部又四郎は何事なかったように平伏したまま綱豊に向き直る。
「殿は上野介様へのお気遣いで疲労困憊でござりました。夜も更けており、私の一存にてお帰り頂きました。」
「間部は余の名代ぞ。」
「はっ。申し訳ござりませぬ。」
「我等もな、綱憲の事を気にかけているのだ。」
 綱憲の額にうっすらと汗が滲みはじめる。
「申し訳ござりませぬ。どんなご処分でもお受けいたしまする。」
 色部又四郎が覚悟を決めて話した。
「よいよい。もう過ぎたことじゃ咎めはせぬ。」
 綱條は、笑顔のまま成り行きをただ見つめている。
「先程、気掛かりと申したのはな。上様が下した内匠頭ご処分に不満を抱く者が出ておると聞いたからなのじゃ。」
 綱憲を焚きつけようとする綱豊の魂胆が、色部又四郎には手に取るようにわかる。
「登城や帰路の途中、襲われたりしたら如何する。そうなったら両家だけでは防ぎきれまい。」
「何の赤穂の浪人共が何人来ようと、我が上杉家が必ず防いでみせまする。」
「よくぞ申した。流石、武門の誉れじゃ・・・。」
 平伏している色部又四郎の眉間のしわが深くなる。
「ま、警戒を怠らぬことだな・・・。」
「はっ。」
 綱豊と綱條は互いの顔を見合せ、僅かに笑みを浮かべていた。
「さて、物騒な話はこれまでじゃ。綱憲、今宵は楽しもうぞ。」
 綱豊は綱憲へ向け銚子を差し出した。
 神妙な態度で綱豊に酒を注がれる綱憲を色部又四郎は苦々しい思いで見つめていた。 

                 四

 内蔵助が小瀬戸から京都山科へ移り住むという情報を武太夫から得て、多都馬は三吉を連れて動向を探っていた。長兵衛は江戸にて口入れ屋集の総動員をかけていた。
 山科は進藤(しんどう)源四郎(げんしろう)の縁故の土地であったため、住居を新築していたのである。そこには元赤穂藩筆頭家老の面影はなく、まるで世捨て人のように世情に係わらなく過そうとする内蔵助がいた。
 その日、内蔵助は長男/主税(ちから)と家臣の瀬尾(せお)孫左衛門(まござえもん)と共に畑を耕していた。
 多都馬と三吉は、山科の屋敷を少し離れた林の中から監視していた。
「旦那、あのお方はお偉い方なんですよね?」 
「赤穂藩の筆頭家老だった男だ。」
「ここに住み始めてから数日、昼間は野良仕事。夜は祇園で芸者遊び。とてもそのようなお方には見えねぇんですが・・・。」
「昼行燈などと呼ばれていたそうだ。」
「昼行燈って何ですか?」
「行燈は夜に使うものだよな。」
「へい。昼に使ったって役に立ちやせんぜ。」
「そういうことだ。」
 納得した三吉は、大きな口を開けて頷いた。
「旦那~、そんなお人が仇討ちなんかするわけねぇ。」
「そのうちわかるさ。」
 三吉は要人の監視と聞いて意気揚々と同行したものの、内蔵助の生活ぶりを見て拍子抜けしてしまっていた。
― なるほど。都や大阪に居を構えたのであれば、世間の衆目を集めることになる。
 山科であれば、京都や伏見は目と鼻の先。街道も東海道がすぐ側にある。大石内蔵助、なかなか考えているじゃないか。―
 多都馬が感心している横で、三吉は居眠りをしてしまっていた。嵐の前の静けさというのか、多都馬たちを囲む木々や草木の香り、近くを流れる清流の音が陰謀という血生臭いものを打ち消していた。

                  五

 甲府藩下屋敷の庭を甲府宰相/綱豊は、間部(まなべ)詮房(あきふさ)と新井白石を控えさせ差し込む日差しを感じながら歩いていた。
「良い日和でございますなぁ。」
 白石は縁側に腰を下ろし、空を眺めて言った。
 綱豊は、そんな白石を険しい顔で見つめている。
「白石。」
「はい。」
 どこか機嫌の悪い綱豊の声を聴いても、白石は平然としていた。
「そちは満足か?」
「何でございましょう。」 
「しらばっくれるでない。」
 綱豊が、白石を睨みつける。
「そのようなこと、致してはおりませぬが。」
 白石は綱豊に平伏してはいるが、その態度は堂々としていた。
「余に綱憲を焚きつけさせ、赤穂の浪士たちと事が起きるよう仕向けさせたではないか。」
「宰相様はご不満でございますか?」
「当り前じゃ!」
 綱豊が発した声で木に止まっていた雀たちが一斉に飛び立っていく。
「あのような・・・吉保が如き真似、余は不愉快じゃ。」
「左様でございますか。」
 綱豊は白石の抑揚のない話し方に肩を震わした。
「子が親を守りたいという殊勝な思いを、余は己が欲のために利用したのじゃ。人間のする事ではないわ!」
 白石も詮房も、怒りに打ち震える綱豊を前にしても表情を変えていない。
「恐れながら殿が次期将軍職に御付きなることは、己が欲のためではござりませぬ!」
 静観していた詮房が、鋭く突き刺さるような声で答えた。
「生類憐みの令に端を発し、勘定吟味役の失策による財政悪化など上様のなされる御政道は民百姓を苦しめるばかり。此度の刃傷においても御同様にござります。」
 綱豊は、詮房に返す言葉もなく目を閉じた。
「綱憲様が、これからどのように振る舞われるかはわかりませぬ。何もなさらぬかも知れませぬ。しかし、それでは歪んでしまった御政道の非を天下に知らしめることは出来ませぬ。殿にあのような真似をさせてまでも、上杉には必要以上に事を煽ってもらわねばなりませぬ。」
 鋭かった詮房の口調は次第に穏やかになっていき、綱豊を労わるように変わっていく。
「殿。」
 詮房が腰掛けていた縁側から降りて綱豊の前に跪く。
「殿がそのような御覚悟でおいでなら・・・。」
「何だ!」
「歪んだ御政道のせいで犠牲になりし民たちの想いは浮かばれぬでしょうな。」
 綱豊は熱弁を振るう詮房を見つめた。
「殿が味わった卑しき真似をせずともよい世を作り上げるには、これしきの事で慙愧《ざんき》の念に駆られてはなりませぬ。」
「・・・わかった。」
 綱豊が静かに詮房の言葉に答えた。
 これを聞いた詮房は、綱豊に体を震わせながら頭を下げた。
 詮房と白石の思いを知り新たな決意を胸に秘めた綱豊であった。

                  六

 多都馬と三吉は、内蔵助の後を追い京都伏見に来ていた。芝居小屋や土産物屋が軒を連ね、昼と変わらぬ賑わいであった。
「なんかこう、やはり吉原とは違いますなぁ。」
「どことなく(みやび)な感じが漂うておるの。」
「へい。しかし、何でございますね。アッシはこっちよりも吉原のほうが性に合ってますかねぇ~。」
 多都馬と三吉は、内蔵助が入った遊廓の裏手にある旅籠に部屋を取り監視を続ける。
「三吉。せっかく京へ来たのだ。ここは、ワシに任せてお前は遊んで参れ。」
「えっ!いいんですか!」
「構わん。京の女を十分に堪能してこい。」
 三吉は、眼を輝かして喜ぶのだが直ぐに真顔になる。
「いや、旦那。アッシは遊びに来たんじゃありやせん。第一、元締めに叱られますんで。」
「何を言うておる。長兵衛には内緒にしておいてやるよ。」
「・・・そ、そうですか。」
 三吉は多都馬の顔色を窺いながら迷っていた。
「さ、早う行って来い!」
「では、お言葉に甘えて。」
 三吉は、多都馬から金子を受け取りいそいそと部屋を出て行った。
 三吉の様子に苦笑いを浮かべる多都馬の視線は、内蔵助のいる遊廓を見つめていた。

                  七

 多都馬と三吉が内蔵助の監視を始めて一ヶ月が過ぎようとしていた。
 その間、内蔵助は山科と伏見を行ったり来たりの日々であった。
 時には数日間も山科に戻らぬことも幾度となくあった。
 旅籠に長期の逗留は怪しまれるので早々に引き払い、多都馬は動きがとれる拠点を山科と伏見の間に置いた。
 忠義の使いの者が活動資金を置いていきがてら、中間報告を聞いてくるのだが変化は相変わらずなかった。
 二人が監視をする中、内蔵助は今日も馴染みの店で放蕩三昧であった。
 毎夜繰り広げられる宴に、世間の人々は「大石、軽くて軽石よ。赤穂浪士ではなくアホウ浪士。」などと揶揄していた。三吉などは次第に馬鹿馬鹿しくなって、多都馬の横で居眠りをするのが日常になっていた。
 多都馬と三吉は、内蔵助が使用する部屋を覗く事が出来る雑木林から監視をしている。
「あ、すいやせん。つい・・・。」
 三吉は、眠たそうに眼をこする。
「気にするな。」
「旦那、くどいようですがね。ありゃ、やる気なんて絶対ありゃしませんぜ。」
 多都馬は、三吉の言葉には反応せず内蔵助の遊興ぶりを眺めていた。
― 大石という男、なかなか面白い男だ。―
 多都馬は突然、遊廓を囲む只ならぬ殺気を感じる。隣の三吉は、眠りに落ちないように自分の頬を叩いている。
「三吉、大石の奥方を見張るのだ。ここはもうよい。」
「えっ、奥方様をですか?」
「ここにいても何も起こるまい。」
 三吉は多都馬の指示に従い、遊廓を後にして山科へ向かった。長兵衛配下の中でも三吉は、優れた体術の腕前を持っているが刺客相手では歯が立たない。
 歯が立たないどころかかえって足手まといになる。多都馬が三吉を山科へ向かわせたのは、そのためであった。
「大石殿。やっと現れたようだな。」
 多都馬は自身の気配を消し、その場に同化し始める。
 裏柳生頭領/柳生又八郎は、別の場所から内蔵助の動向を見ていた。兵衛は見届け役として又八郎等に同行していた。しかし二人共、多都馬の存在には気付いていなかった。
「又八郎様。あのような男、又八郎様が出向くまでもございません。我等三名で十分でございます。」
「そのようだな。」
 又八郎配下の三名は、内蔵助のいる祇園一力茶屋へ襲撃をかける。
 内蔵助に付従うのは瀬尾孫左衛門のみであった。
 三名の暗殺者が一斉に内蔵助に襲いかかる。多都馬が駆け付けようとすると事態は思わぬ方向へ進んだ。” 昼行燈 ”と噂されていたため又八郎は侮っていたのだ。内蔵助は東軍一刀流免許皆伝の腕前を持つ剣の達人である。三名の刺客は刃を難なくかわされ、内蔵助が手にしていた扇子で打ちのめされていた。
 裏柳生の三名の暗殺者たちは、打ちのめされたまま呆然としていた。突然の出来事に多都馬と又八郎は呆然としてしまう。
「旦那様!」
 孫左衛門が駆け付け、内蔵助に刀を渡す。
 監視をしていた多都馬は、その一瞬の隙を見逃さなかった。兵衛たちと内蔵助の間に割って入り、抜刀出来るよう柄に手をかけた。
 兵衛は、いきなり割って入ってきた多都馬の出現に驚いた。
「相手が悪い!引くのだ!」
「馬鹿な、相手はたかが二人だ!」
「お主たちの敵う相手ではないわ!引けい!」
 多都馬が内蔵助の警護をしていると勘違いをした兵衛たちは、その場から早々に立ち去っていく。
「お主のおかげで命拾いをした。かたじけない。」
 内蔵助が多都馬に声をかける。
(それがし)は何もいたしてはおりませぬが・・・。」
「いや。お主の発する剣気で、相手も恐れをなして逃げて行ったではありませんか。」
「いえ、そのような・・・。」
「見事なものでした。」
「某も先程の者と同様、貴殿の命を狙うていたら如何いたします。」
「それはなかろう。」
 内蔵助は多都馬の言ったことを笑い飛ばしている。
「わかりませぬぞ。」
 多都馬は、わざと凄味を利かせた声で迫る。
「いやいや、先ほどから貴殿の気配には殺気がござらぬでな。」
 多都馬たちの気配に気づいていた内蔵助に驚く。
 内蔵助はそう言いながら、堂々と背を向け部屋へと消えていった。去っていく内蔵助を見ながら多都馬は思った。
― 見事な男だ。―

                  八

 京都にある柳生藩の屋敷にて兵衛は又八郎と対面していた。しかし、兵衛は裏柳生の面々に四方を囲まれる中、まるで襲いかかるのを待っているかのような座っている。
 その表情には動揺もなく落ち着ていた。
 内蔵助の暗殺は失敗に終わった。想像を超える内蔵助の反撃と、多都馬の出現は兵衛の思惑を超えていた。しかし、そういった状況に至っても裏柳生には人を殺める気迫が感じられなかった。
― どうやら柳生家は、本気で大石を斬ろうと思うてはおらんな。―
 兵衛はそう考えていた。 
 裏柳生の不甲斐なさを激しく非難する兵衛は、今後の企てに加えない旨を又八郎に伝える。
「又八郎殿。拙者が危惧したとおりの結果になってしまいましたな。」
 又八郎は目を閉じて無言だった。
「ただ一度しくじった程度で、我等を見限るのは早すぎやせぬか?」
 又八郎が、兵衛を威嚇する口調で話す。
「一度で十分でござる。」
「何っ!」
 又八郎がまなじりを上げ兵衛を睨む。
「何度やろうと結果は同じ。光陰矢の如しと申しましてな。拙者は、時を無駄に使いとうはござりませぬ。」
 兵衛の背後にいる家臣たちがざわめく。
「最早、柳生家の栄華は三厳公まででござるな。裏柳生など、期待外れも甚だしい。即刻、解体されるがよろしかろう。」
「おのれ!」
 兵衛の態度に腹を立てた家臣たちが斬りかかる。
「よせ!」
 家臣たちを制しようと又八郎が腰を上げるが、耳に届かず一斉に兵衛に斬りかかる。
 これを兵衛は、凄まじい剣気で一瞬のうちに返り討ちにしてしまう。
 斬りかかろうとした家臣たちは、動きを封じられ固まっている。
 天井裏から美郷が舞い降りて、兵衛の死角を守るように構える。
「二階堂平法、心の一方か。」
 又八郎が静かに呟いた。
 これを見た他の家臣たちが、再度兵衛に斬りかかろうとする。
 又八郎は、体を張ってこれを制する。
「さすがは裏柳生の頭。二階堂平法を知っておるようだな。」
 兵衛が不敵な笑みを浮かべ、又八郎たちを警戒しながら後退る。
 兵衛の死角を守るように美郷が十字手裏剣を構えている。
 心の一方を掛けられていない配下の者が屋敷奥から駆けつけてきて兵衛たちを囲もうとする。
「よせ!無念だが今の柳生に、この男は討てぬ。」
 次々に膝を落として項垂れる裏柳生の面々であった。
「眼力だけは確かなようじゃな。吉保様からの御沙汰をお待ちなされい!」
 兵衛は高らかな笑い声を残し、又八郎たちの柳生屋敷を後にした。

                  九

 多都馬と三吉は、遊廓から帰る内蔵助の後を追い街道を歩いていた。街道とはいえ、道の両側は鬱蒼とした木々に覆われ闇を一層濃くしていた。
 多都馬に警護されているという安心感なのか、内蔵助は酩酊状態で瀬尾孫左衛門に抱えられて山科への帰路についた。後を追っている多都馬は、不意に凄まじいほどの殺気を感じて足を止める。
「旦那、どうかなさったんで?」
「三吉。お前は、このまま大石の後を付けてくれ。ワシも、すぐ後を追う。」
 三吉は、険しい表情の多都馬から尋常でない状況を察して足早にその場を去っていく。
 風が木々を揺らす音だけが聞こえ、街道は森閑としてる。
「石堂兵衛。それほどの殺気、一里先でもわかるぞ。」
 兵衛が森の中から現れる。
「久し振りだな、多都馬!」
 兵衛は、多都馬に語りかけながら間合いを詰めて来る。
「師匠より破門されて以来だ。師匠は元気にしておるか?」
 多都馬は問いには答えず、間合いを詰めて来る兵衛を警戒して構えている。
「奥義は体得したか?」
 兵衛も左指で鍔を押し上げ抜きやすくしている。
「何故、大石を守る?」
「別に守っている訳ではない。」
「それなら、何故割って入ってきた。」
「一人を相手に四人掛かりとは卑怯と思ったまで・・・。」
「なるほど。」
 兵衛は、薄ら笑いを浮かべて詰め寄って来る。
「大石の命、何故お主が狙う・・・。」
 多都馬が言う。
 多都馬は、兵衛との間合いに気をつけながら構えを崩さない。
「知る必要はない。」
 言い終えるのと同時に兵衛が多都馬に斬りかかる。
 兵衛は抜打ちで右薙ぎに払うが、多都馬もそれを抜いた刀で受け止めた。
 多都馬は受け止めた兵衛の刃を払い、返す刃で上段から斬り下ろした。
 振り下ろされた多都馬の刀を避け、兵衛は後ろへ一間ほど退く。
「多都馬、腕は衰えておらんの。」
 兵衛が吹き荒ぶ風のような突進で多都馬に斬りかかる。右から左へと兵衛の刃を受け止め、次の右からの斬撃を受けた勢いをそのままに体を旋回して兵衛を右薙ぎに斬りつける。
 兵衛は多都馬の斬撃を受け止めるが、その衝撃で2間ほど吹き飛ばされる。兵衛は吹き飛ばされながらも、脇差を抜いて多都馬目掛けて投げつけた。
 多都馬はそれを紙一重で避ける。
 多都馬は霞に構え、兵衛は印に構えを移し対峙する。
「多都馬。衰えるどころか、腕を上げたようだな。」
 兵衛が不敵に笑う。
「勝負はついておらんぞ。」
「多都馬。我等の勝負、決するにはまだ早い。」
「何っ!」
「我等の決着に相応しい最高の舞台は、まだまだ先だ。さらばだ!」
 兵衛は多都馬に言い残して、その場から足早に去って行った。
「待て、兵衛。」
 二階堂平法の同門だった兵衛の関与に、多都馬は一層の不安を募らせていた。
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