心の刃 -忠臣蔵異聞-
第14章 雀と鷹
           一

 長兵衛が三吉を引き連れ、通りの向こうから走ってくるのが須乃には見えていた。二人は行き交う人々の間をかき分け走ってくる。
「多都馬様!もう少しで長兵衛さんと三吉さんが見えられますよ!」
 須乃は奥にいる多都馬にむかって叫んだ。
「おう!着いたら奥へ通してくれ。」
「はい。」
 しばらくして長兵衛が険しい表情のまま、邸宅に上がってくる。三吉は方々走り回っていたせいか、店内の板の間に大の字になって横たわる。
「大丈夫ですか?」
 心配そうに須乃が寄り添ってくる。
「三吉、お前はここで休んでいろ。」
 三吉は、須乃が差し出す水を一気に飲み干した。 
「多都馬様。」
 長兵衛は、多都馬に一礼して部屋に入る。
「どうした。事が起きたか?」
「はい。」
 長兵衛の顔は悲しみに満ちていた。
「浪士の方で、萱野三平様をご存じで?」
「直接は知らんが、早駕籠で第一報を国許へもたらした男だろう。名は聞いたことがある。」
「ご自害されました。」
「何!」
「なんでも仕官の話があったとかで・・・。」
「なら何故自害など!」
「萱野様のお父上様は長崎奉行/大島義也様の御家来とかで・・・。浪々の身である萱野様を案じていらっしゃったようでございます。」
「早まったことを…。」
 多都馬は、悔しさのあまり家の柱に拳を打ちつける。
「高田様が脱名され堀部様や奥田様の落胆ぶりを、どこからかお聞きになされたのでしょう。大義と親御様への孝行とで板挟みに遭われたのではないでしょうか。」
 多都馬は死することしか道が無かった三平の気持ちを思った。
「お(いたわ)しい話でございます。」
 多都馬は武士でありながら、命を全うしない自害や殉死という考え方に懐疑的な男である。三平自害の知らせは、多都馬の心を痛めていた。
「・・・しかし何故、今頃になって急に仕官の話が菅野様のところへ・・・。」
「長兵衛。仕官の話は長崎奉行の大島義也と言っていたな?」
「はい。お父上様を通して・・・。」
「確か・・・。大島義也は吉良家と深い繋がりがあった家だったはず。」
「えっ。じゃあ、これは・・・。」
 長兵衛は何か作為的なものを感じ絶句する。
「最初から仕組まれたものかも知れぬ。」
「仕組まれたってどういうことですか?」
 多都馬は、上杉が標的を内蔵助から浪士たちに切り替えたと直感する。
「須乃!これから安兵衛のところに参る。」

          二

 人気のない竹林に風だけが、その間を縫うように吹いていた。
 兵衛は竹林の中で目を閉じ、微動だにせず気を体内に溜め込んでいた。
 そして、次の瞬間溜め込まれた気が一気に放たれ、地面に落ちていた枯れ葉が一斉に舞い上がった。
 再び兵衛が気を溜め込めようとした時、美郷から声を掛けられる。
 美郷は兵衛の背後に控えていた。
「兵衛様。こちらでございましたか・・・。」
「うむ。御前の屋敷は引き払った。」
「柳沢様と完全に手を切るということでしょうか。」
「あの刃傷事件以来、御前の評判は地に落ちた。そのような者に用はない。」
「わかりました。」
「多都馬の家の者はどうだ。」
「今のところ、伊兵衛たちの姿は見えておりませぬ。」
「そうか。」
「はい。」
 美郷は須乃と言葉を交わし接触したことは伝えなかった。
「しかし、伊兵衛は必ず多都馬の家の者を狙うて来る。これまで通り、監視を続けてくれ。」
「畏まりました。」
 返事をした後、美郷は兵衛の顔をじっと見つめていた。
 兵衛は、少し様子が違う美郷に気付く。
「どうした?」
 美郷の脳裏に多都馬を襲った日のことが蘇る。
― お主、兵衛に惚れておるのか?―
「どうした、早く行け。」
 兵衛の言葉で我に返り、美郷は慌てて監視の任に戻って行った。
 走り去る美郷を見届けた兵衛は、再び鍛錬の続きを始める。
 多都馬の家の監視をするため走り出した美郷は、ふと足を止め振り返った。
 視線の先には再び鍛錬を開始している兵衛がいた。美郷は暫く兵衛の様子を見つめていたが、何かを振り切るように走り出して行く。

          三

 三平は忠義(ちゅうぎ)と親への忠孝との板挟みに悩み自害してしまっていた。三平の自害は、浪士たちに多大な衝撃を与えていた。萱野重利は、内蔵助が隠遁しているという山科を訪れた。重利が訪れるということで、江戸から片岡源五右衛門、田中(たなか)貞四郎(さだしろう)、奥田孫太夫らも駆けつけていた。
「大石殿。拙者の浅はかさお笑いくだされ。」
 内蔵助は、目を閉じたまま何も語らなかった。
 浪士たち面々は、三平の死を悲しみに項垂れていた。
「三平を亡くし初めてわかり申した。愚かな自分を・・・。」
「い、いや、そんなことは・・・。」
 内蔵助は重利にかける言葉がなかった。
「そこまで、拙者のこと。そして、内匠頭様のことを考えていたとは・・・。」
「三平は、浅野家一忠義の家臣でございました。」
 内蔵助が重利を労わるように言う。
 重利は、涙をこぼしながら懐から紙に包んだものを取り出し内蔵助に渡す。
「これは、三平のもとどりにござる。」
 内蔵助は手渡された三平の髷を見つめる。
「討ち入りの際、三平もお仲間に加えて頂きとうござります。」
 重利は、内蔵助に頭を下げ男泣きに泣いた。
 その後、萱野重利は息子三平の後を追うように亡くなっている。
 内蔵助は、遺髪を握りしめそっと懐へとしまい込んだ。

          四   

 重利が去った山科では、内蔵助を取り囲み討ち入りの密議をしていた。
「三平は、我等が殺したようなものだな。」
 惣右衛門が、重々しい口調で呟く。
「何を申すのだ。決してそのように考えてはならぬ。」
 進藤(しんどう)源四郎(げんしろう)が、項垂れる一同に諭すように言う。
「進藤殿。では何のために三平は死んだのだ。」
 惣右衛門は、源四郎に食ってかかるよう言った。
 源四郎は惣右衛門の言葉に何も返すことが出来ない。
「我等がこうして時を無駄に過ごしている間にも、第二第三の三平が出るとも限らんのではないでしょうか。」 
 惣右衛門は、口を閉ざしたままの内蔵助を見る。
「ご家老。人の心は移ろいやすいものでございます。一刻も早い討ち入りの決定をお願いいたしまする。」
 内蔵助は、惣右衛門の言葉にも目を閉じたまま返さない。
「惣右衛門。討ち入りの日は、殿のご命日である三月十四日と決定したはずじゃ。」
 源四郎が内蔵助に代わり惣右衛門に答えた。
「三月十四日は、あと二月後でございます。しかしながら、討ち入りの計画も準備も未だ整ってはおりませぬ。これで三月十四日に討ち入りとは片腹痛い。」
 惣右衛門の隣に座している孫太夫が、源四郎を睨みながら言った。
「では、孫太夫。お主は、閉門蟄居されておる大学様のことはどのように思うておる。」
 同じく同席している奥野(おくの)将監(しょうげん)が孫太夫を見つめて言う。
「惣右衛門。お主もどうじゃ?」
 将監は惣右衛門にも同じことを聞いた。
「長矩様亡き後、代わって大学様が我等の主ぞ。そのお方のご処分につき、ご家老が幕閣へ働き掛けをされておられる。そのような時に討ち入りなどと・・・大学様をなんと心得ておる!」
 将監の言葉に急進派の惣右衛門も孫太夫も言葉を失ってしまう。
「三月十四日は、あくまでも目安じゃ。大学様のご処分が伸びれば、当然討ち入りの決行も先送りになる。」
 内蔵助は、静かに立ち上がり部屋を退出していった。
「よろしいな。これからも、ご家老の御沙汰を待つのだ。よいな!」
 孫太夫は、握り締める拳に力を込めた。

          五

 その夜、孫太夫をはじめとする江戸詰浪士たちは山科を後にした。
 怒りの矛先は未だ討ち入りに腰を上げない内蔵助に向けられていた。
「ご家老は遊女に溺れ腑抜けになられた。三平の死も無駄になるわ!」
「大学様のご処分と申しておったが、最初から討ち入るつもりなどないのだ。」
 孫太夫は握りしめた拳で自分の膝を打ちながら帰って行った。
 内蔵助の嫡男/主税(ちから)でさえ、父への思いが揺らぎ始めていた。
 浪士たちの父を蔑む言葉がいつまでも主税の耳から離れなかった。
 浪士たちが屋敷を離れた後、矢も盾もたまらず主税は内蔵助の部屋を訪れていた。
「父上。吉良邸への討ち入り、その御覚悟は御有りなのでしょうか?」
内蔵助は、何も答えず筆を走らせ書状を書いていた。
「奥田様も、原様も父上を見限ってしまわれたら、どうなさるおつもりなのですか?」
 内蔵助は、振り返らずひたすら筆を走らせている。
 主税は問いかけても返事のない内蔵助の背中を涙を浮かべながら見つめている。
「父上!」
 内蔵助の様子に耐えられなくなった主税は、屋敷を飛び出して行ってしまう。内蔵助は開いたままの襖を見つめ、控えている孫左衛門を呼ぶ。
「孫左衛門…。」
「旦那様。」
 控えていた瀬尾孫左衛門が、襖の間から内蔵助の様子を窺う。
 内蔵助は、孫左衛門を無言で見つめている。
 孫左衛門は、黙して語らない内蔵助の意を読み取り主税の後を追った。

          六

 主税は、山科の屋敷から離れた雑木林に一人来ていた。屋敷から一心不乱に駆け、息も絶え絶えになっていた。日も暮れかけようとしている竹林は薄暗く、主税には己の心の中が映し出されているように見えた。そして日頃の憂さを晴らすかのように刀を振り回す。主税の振り下ろした刀が竹に食い込み抜けなくなる。
「くそぉ~!くそぉ~!」
 主税は、自身の不甲斐無さに膝から崩れ落ちる。
 主税の様子を右源太たちは、木陰からずっと見張っていた。
 この機に乗じようとする軒猿の右源太は、主税の周囲を配下の者で囲み始める。軒猿たちの計略にまんまと嵌る主税は、あっという間に囲まれてしまう。
「そんな腕では、人は斬れませぬぞ。」
 どこからともなく聞こえる声に、主税は驚き辺りを窺う。
「元赤穂藩筆頭家老/大石内蔵助殿の御嫡男、主税殿でござるな?」
「いかにも。お主たちは何者だ。名を名乗れ!」
「これから死んでいく御仁に名乗っても意味はあるまい。」
 殺気が漂わない右源太の目が、主税を余計に震えさせていた。初めて味わう死の恐怖に、主税の顔は引きつっていた。
「斬れ!」
 一斉に襲い掛かる軒猿たちの刃を跳ね返し、間に割って入る男たちがいた。
「主税殿、大事ないか!」
 潮田又之丞と不破数右衛門であった。
「は、はい。」
 主税の声は、怯えきっていた。
「大石家の嫡男ともあろうお方が、そんなことでいかがする!」
 数右衛門が怯える主税に声をかける。
 又之丞の後ろには、妻/ゆうが控えていた。
「ゆう!主税殿を頼む。」
 ゆうは又之丞が切り開いた突破口から、怯える主税の手を取り軒猿たちの間をすり抜ける。
「不破様、潮田様―っ!」
 主税の叫ぶ声が響き渡る。
 ゆうも心配そうに振り返る。ゆうと主税を追って軒猿たちが迫る。ゆうが主税を庇って小刀を構える。そこへ、父/内蔵助が現れ軒猿たちの前に立ちはだかる。
「大石様!」
「ゆう殿。愚息主税をお願い申す。」
 内蔵助が、主税を見下ろして静かに言い放つ。
「主税。物事を見誤るでない。」
 主税たちを襲った二人の軒猿は、二手に別れて内蔵助を狙う。二人の軒猿は、左右同時に斬り掛かっる。内蔵助は、左から振り下ろされた斬撃をかわして右より斬り掛かった刃を受け止める。
 数右衛門と又之丞は、背中合わせに立ち互いの死角を封じている。迂闊に斬り込めない軒猿たちは、数右衛門と又之丞と睨み合いが続いている。
 内蔵助は、鍔迫り合いを続いている軒猿から離れられない。
「主税様、お父上の加勢に参りましょう。」
「はい。」
 ゆうと主税は、内蔵助の左側で構える軒猿に斬り掛かった。ゆうは、夫/又之丞直伝の太刀さばきで軒猿を手こずらせる。
 軒猿たちは、主税とゆうの思わぬ反撃で一気に不利になる。
 情勢が不利と判断した右源太は、配下の者に引き上げの命令を出す。
「待て!追わずともよい。」
 追って行こうとする又之丞と数右衛門を制し、内蔵助は刀を納める。
 内蔵助は振り返り、ゆうに保護されている主税を見た。ゆうは主税の無事を知らせる。
 主税は初めて見る父の勇姿に、討ち入りの真意を垣間見た。そして揺れ動いていた己の気持ちを引き締めていた。
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