心の刃 -忠臣蔵異聞-
第16章 命の重み
          一

 内蔵助や浪士たちの暗殺計画が遂行されて以来、浪士たちの警護や行動も慎重になっていた。
 内蔵助の傍には複数の浪士たちが交代で警護を務め、槍の達人である潮田又之丞が警護の長となって内蔵助を守っていた。多都馬は、暫く内蔵助から離れても問題ないと判断し、山科から長兵衛の配下たちを引き揚げさせた。
 多都馬はあることを伝えに長兵衛宅を訪れていた。
 長兵衛宅の広間には、江戸中の子分たちが招集されていた。多都馬は長兵衛たちに、上杉家の関与と浪士たちが犠牲になったことを伝える。
 長兵衛たちに犠牲者が出るかも知れない状況で、多都馬は手を引かせることを考えていた。
「多都馬様。私共にもう関わるなとは、いったいどういう事でございますか。」
「吉良上野介義央様は、米沢藩上杉綱憲様のお父上様。吉良左兵衛義周様は、米沢藩主/上杉綱憲様のお子だ。」
「はい、存じております。」
「それ故、上杉十五万石が吉良様の後ろ盾となっておる・・・。」
「だったら尚のこと、私共の手が必要なはずでございましょう。」
「上杉家は謙信公以来の武門の家柄、公儀に隠密が居るように奴等にも”軒猿(のきざる)“と呼ばれる忍軍が居る。」
「軒猿?忍びか何かですかい。」
「ただの忍びではない。敵対する忍びを相手にしておる特別な連中だ。」
 手強い相手だけに長兵衛たちにも犠牲が出てしまう事を多都馬は恐れていた。長兵衛たちが太刀打ち出来る相手ではないのである。
 多都馬の表情から事態の深刻さを悟った一同に動揺と不安が走る。
 長兵衛はざわついている子分たちを見渡して一喝する。
「うろたえてるんじゃねぇ!」
 長兵衛の一言で子分たちが静まり返る。
「多都馬様。お武家様に武士道がお有りな様に、私共にも仁義というものがございます。私共は、亡き登馬様ならびに多都馬様に多大な恩義がございます。相手がどんなものであろうと恐れ(おのの)いて手を引いたんじゃ、あの世で登馬様に顔向けが出来ねぇ。」
「しかし、先程も申した通りただの忍びではないのだ。御下命が下れば女子供でも眉ひとつ動かさずに殺める連中だ。ここに居る皆の身に何かあれば・・・。」
 多都馬が言い終えぬうちに長兵衛が答えた。
「多都馬様。全くあなた方ご兄弟は本当によく似ていらっしゃる。私共のような者にも、そのようなお情けを・・・。」
 長兵衛が生業としている口入れ屋とは、現在でいう人材派遣業である。ただし当時は、地方の百姓の娘などを安い金で見受けし、吉原などの岡場所に預けて稼ぎをピン撥ねしていたのが通例だった。こういった仕事の背景には、様々な人間関係や商いの利害が絡むものであり、いざこざが付き物であったという。口入れ屋という正業を持ってはいるが、長兵衛も所詮は侠客の一人だった。
しかし、中には身元不確かな者の保証人となり職業を斡旋、時には豪商の娘の嫁入り先を世話するなど真面目にやっていた者もいたのだ。長兵衛は後者の部類に属する口入れ屋で、故に人望もあり侠客の中では一目置かれた存在だった。
「だが、これは最初っから損得の問題じゃねぇんですよ。」
「長兵衛・・・。」
「旦那、元締めの言うとおりですぜ!こいつは、赤穂の方々と公儀の喧嘩でしょ?」
 三吉の可笑しな啖呵が一同の笑いを誘った。
「ご政道の非を正すためとか、お武家様の大義だとか、そういう難しいことは私らには分かりません。しかし、多都馬様が苦しんでいらっしゃることだけは確かじゃありませんか・・・。その苦しんでおられる多都馬様の御役に立ちてぇ、ただそれだけでなんですよ。」
 多都馬は、目頭が熱くなるのを感じていた。
「多都馬様。アッシ等、絶対に手を引くつもりはありませんぜ。」
 多都馬は、長兵衛と配下の者たちの顔を見渡した。長兵衛の後ろに居並ぶ、どの顔も覚悟を決めた男の顔だった。
「わかった。しかし、何事も深追いせぬと約束することが条件だ。それと危うくなる前に、必ずワシを呼ぶこと。よいな!」
「へい!」
 多都馬の言葉に、長兵衛をはじめ配下の者たちは一斉に活気づくのだった。

          二

 上杉家の思わぬ攻略に浪士たちは、京都山科にて緊急会議を行った。
 内蔵助は藤井・安井両名の裏切りに驚いていた。
「又左衛門殿と彦右衛門殿が・・・。信じられぬ。」
「と・・・殿は、その二人に欺かれておったのか。」
 惣右衛門は、肩を震わせながら畳に拳を叩きつける。
「ご家老。その両名の他にも居るかも知れませぬぞ。」
「惣右衛門、滅多なことを申す出ない。」
 内蔵助は、惣右衛門に注意を促した。
 裏切りの発覚は、浪士たちの間に疑心暗鬼を生じさせていた。
「しかし、ご家老。こちらも備えをしておかなければ犠牲者が増えるばかりでございまする。」
 大高源吾は、内蔵助に懇願するように訴える。
「明らかなのは多川殿と清右衛門の二人。」
 惣右衛門が内蔵助を睨みながら言った。
 内蔵助は目を閉じまま何も言葉を発しない。
「恐らく萱野や平左衛門も・・・。」
「橋本は遊女との相対死ではないのか?」
 源四郎の見下したような言葉に、惣右衛門が殺気を含んだ視線を送る。今にも源四郎を斬るような惣右衛門を押さえながら大高源吾が仇討の早期決行を訴える。
「ご家老。裏切り者がいた以上、もう一刻の猶予もございません。」
「猶予とは何じゃ、仇討の事か?」
 源四郎は怪訝な顔をして大高源吾に言った。
 強硬論者の惣右衛門が大高源吾に代わり自信満々に答える。
「いかにも。」
「浅野家には、弟君の長広様がおいでになる。何度も言わせるでない!」
「命のせめぎ合いをしている我等に、長広様の事を考えている余裕などござらん!」
 今にも飛び出しそうな目で惣右衛門が源四郎を睨みつける。 
「仇討ちなどして、長広様にご迷惑がかかるとは思わんのか。」
 穏健派の源四郎等は、ご舎弟/長広をしてお家再興の主張を譲らない。
「長矩様の無念を晴らさずして何のお家再興か!」
「御公儀の裁定は下っておるのじゃ。仇討ちをすれば御公儀への反逆とみなされ、長広様は言うに及ばず広島の御本家にも御沙汰が下るやも知れんのだぞ。」
 その後、江戸急進派と上方の穏健派との協議は平行線を辿った。
 最終的な結論は、内蔵助の「ご舎弟長広様の御沙汰を待ってから」ということで落ち着いた。
 江戸の急進派たちは、高田郡兵衛の脱盟以来ことごとく上方の穏健派に論破されてしまう。
 山科での会議決定を原惣右衛門と大高源五は、失意のまま江戸に持ち帰った。

          三

 内蔵助は、山科を拠点とする隠遁生活の中で遠林寺の祐海とお家再興のため、書状での連絡を取り合っていた。
 祐海は、将軍/綱吉やその生母である桂昌院に影響力を持っていた神田護持院の隆光大僧正と同門の僧であったのだ。
 内蔵助は、祐海から届いた書状に目を通す。
 書状を読む内蔵助の表情は険しさが増していた。
 側に控えている又之丞は、いつもの温和な表情が消えている内蔵助が気掛かりになり思わず声をかける。
「ご家老。」
 又之丞の声が聞こえていないほど内蔵助は当惑していた。
「ご家老。」
 又之丞は、再び内蔵助に声をかけた。
「ん?・・・如何した。」
「お顔の色が優れぬと思い・・・。」
「いや、大丈夫だ。ただ、なかなか世の中というものは思い通り動かぬものだと思うてな。」
「何か悪い知らせでも・・・。」
「うむ。大学様を擁しお家再興をと思うて、日々働きかけを致しておるが難しいとの祐海殿の書状だったのだ。」
「では、いよいよ仇討ち・・・。」
「又之丞。」
 内蔵助は、又之丞の言葉を遮るように話しかける。
「お主、人の命をなんと心得る。」
「はっ、何よりも重きものと心得ておりまする。」
「そうか。では、お主自身の命はどうじゃ。」
「私の命は元よりご家老にお預けしておりますれば・・・。」
 内蔵助は、又之丞を見つめた。
 大義に命をかける又之丞の目は、一点の曇りもなく輝いていた。
「又之丞、今ひとつ聞きたいことがある。」
「何なりと・・・。」
「ゆう殿は・・・ゆう殿のことは、どのように考えておる。」
「武士の妻なれば、それなりの覚悟があるはず。拙者亡き後の身の振り方は考えていると存じます。お気遣いはご無用に願いまする。」
 本意ではない又之丞の言葉は、内蔵助の心を強く締め付けた。
「お主の娘、せつはどうしておる。」
 内蔵助は又之丞に娘/せつがいることを思い出して尋ねた。
「姉上の嫁ぎ先、渡辺与左衛門殿にお預けいたしました。」
「父上や母上と離れ、さぞ寂しかろうの。」
 内蔵助の言葉に又之丞は返す言葉が無かった。
「又之丞、ゆう殿やせつへの想い・・・。それが命というものではないのか。」
 内蔵助はそれから何も語らなくなった。

          四

 安兵衛はキチを連れ多都馬の店へ来ていた。
 未だ内蔵助からの連絡はなかった。
 内蔵助へのわだかまりを晴らしたかったのか、下戸であるにも関わらず酒を煽っていた。
「これでは、上杉の思う壺じゃ。清右衛門に顔向けが出来ぬ。」
 安兵衛は須乃の出した漬物をかじりながら多都馬に不満を話し始める。そして、安兵衛は自身の無力さも痛感していた。
「こうなったらご家老を見限るか・・・。」
「何を申すか。頭を冷やせ。」
 なかなか腰を上げぬ内蔵助に、安兵衛は捨て鉢になっていた。
「頭を冷やせだと?」
 呼吸を震わせながら多都馬を睨みつける。
「清右衛門殿や多川殿は、お主等のせいで犠牲になったわけではない。」
「違う!我等のせいだ。我等が討ち入りを先延ばしにした為に・・・。」
 多都馬は自分を責める安兵衛の肩に手を置いた。
「安兵衛。冷静さを失い疑心暗鬼になってしまっては奴等の思う壺だぞ。上杉はお主等を、そのような状態に追い込むために策を仕掛けておるのだ。」
 安兵衛は握る拳に力を込め、唇を噛む。
「仇討に二度目はないのだ。事は慎重に慎重を重ねて挑むことだ。」
「お主は、所詮部外者よ!」
 安兵衛の言葉に日頃温和なキチが鼻息も荒く叫んだ。
「旦那様!多都馬様に向かって部外者とは、何と無礼な物言いにございますか! 」
「何!」
「多都馬様に御助勢をお頼み申したのは旦那様ではありませぬか・・・。」
「キチ殿。」
 安兵衛の物言いに怒るキチへ、本気で言っているわけではないと目で合図する。そして呆れながら多都馬は答える。
「部外者ゆえに、お主たちのことがよう見えるのだ。」
「多都馬様の申される通りでございます。急いては事をし損じる、昔から伝えられておるではありませぬか。」
安兵衛の妻/キチが、多都馬のかたを持って言い放った。
「黙れ!女子(おなご)が口を挟むことではないわ!」
 安兵衛は、キチを睨んで言った。
 キチの目には涙がうっすらと浮かんでいた。
「安兵衛。こっちへ参れ、話がある。」
 多都馬は安兵衛を連れ、裏へ歩いて行った。
 キチの体が小刻みに震え、涙の雫が手の甲に落ちる。
「須乃様。旦那様のこと、誠に申し訳ござりませぬ。」
 キチは須乃へ深々と頭を下げる。
 頭を下げたキチの手の甲は涙で濡れていた。。
「キチ様、お手をお上げください。」
 須乃は憔悴しているキチに寄り添い、優しく背中を撫でた。キチはこれまで堪えてきた想いを、吐き出すように泣き崩れた。
 須乃は、裏で話し込む多都馬と安兵衛を見た。焦る安兵衛に多都馬が、何やら説き伏せている様子が覗える。
 暫く須乃の膝で泣いていたキチも落ち着き、頬を濡らした涙を着物の袖で拭っている。
「須乃様、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。」
「そのようなことを仰らないでください。」
「お心遣い、痛み入りまする。」
「あ、お茶入れ直しましょう。」
 須乃は、すっかり冷えてしまったお茶を入れ直した。
 湯呑み茶碗に注がれる音が、張り詰めていた二人の心を和ませた。キチは、須乃が入れ直したお茶を美味しそうに飲んだ。須乃は、落ち着いてきたキチを見て穏やかに話を切り出した。
「キチ様。少しお聞きしてもよろしいでしょうか。」
「なんでしょう。」
「キチ様は、吉良様への仇討・・・いかがお考えなのでしょうか。」
 キチは大きく溜息をついた後、遠くを見つめて話し出す。
「そうですね・・・。起きてしまった出来事は、とても辛くて悲しいです。」
 須乃は、キチの言葉に何度も頷いた。
「正直、仇討などしなくても・・・と思うこともあります。」
 須乃は、キチを強い眼差しで見つめていた。
「でも、私は武士の妻ですから。仇討という大義がある旦那様のお考えに従うだけです。」
 キチの言葉に須乃は大きく頷いた。
「私がキチ様と同じ立場でございましたら、そのように気丈に振る舞うことなど出来ません。」
「気丈だなんて・・・。私は、足手まといにならぬよう必死なだけです。」
「そうですか・・・。」
「私は、須乃様が羨ましい・・・。」
「えっ?」
「旦那様も多都馬様も、雲のようなお方。捕らえようがなく、ふわふわと勝手にどこかへ行ってしまいます。」
 須乃はキチが何を言おうとしているのか分からず、ただ黙って話を聞いている。
「今は仇討という大義の空を、自由に舞ってしまっています。」
 須乃はキチの話に言葉を返せない。
「須乃様は、その雲を自分の空に捕らえてらっしゃる。羨ましいわ。」
 須乃には、キチの話している内容が全く理解出来なかった。
 キチと同じように武家の女子として育ってきた須乃には、キチの方こそ大義のために尽くす立派な妻に見えるのだった。

          五

 安兵衛と多都馬は、互いに押し問答を続けていた。
「安兵衛。お主の仇討ちにかける意気込みは見事なものだ。」
「今更、なにを。」
「何の迷いも無く一心不乱に邁進する姿勢は、あっぱれという他なかろう。」
「だから、どうした。」
 安兵衛は、多都馬が何を言いたいのか分からず困惑していた。
「しかし、仇討ちに(こだわ)り過ぎて物事を一点しか見ておらん愚か者だ。」
「な・・・何だと!」
「怒ったか。しかし、その通りではないのか?」
「ワシは、ご家老のことも生活に困窮しておる同志も、それから吉良の後ろ盾になっておる上杉のことも。何もかも全て考えておるわ!」
 多都馬は、安兵衛に薄笑いを浮かべるといきなり拳を顔面に叩きこんだ。
 多都馬の拳を顔面に受け、安兵衛は吹き飛んで地面に突っ伏してしまう。
「何をする!」
「安兵衛。やはりお主は何もわかってはおらん。」
「何だと!?」
 安兵衛は座り込んだまま多都馬を睨んでいる。
「お主たちは、脱盟していった者を卑怯者呼ばわりし(さげす)んでおるが。・・・ワシは彼らを、そのように思ってはおらんぞ。」
「多都馬!」
「お主のように(あるじ)に殉じる生き方ばかりが大義とは思うておらんからな。」
 安兵衛は多都馬の言ったことに返すことが出来ず唇をかんだ。
「大義とは人それぞれに違うものなのだ。親に忠孝を成すことも大義であるし、妻子への思いを貫くことも立派な大義だ。それに友への義を貫くのも大義といえば大義だ。」
 多都馬に諭され、安兵衛は力が抜けていくように項垂れている。
 多都馬は、安兵衛に続けて言った。
「脱盟していったものは全て臆病風に吹かれたわけではない、事を成す前に己の大義を考え抜いたのだ。軽々に出した結論ではない。」
 義理堅い安兵衛の気持ちが分からぬ多都馬ではない。どんなに諭しても仇討ちへの志が変わらぬのも分かっていた。だが無二の友である安兵衛を死地に送り込みたくないという本音は、どうしても捨てきれない。その思いが言葉となって安兵衛にぶつけていた。
「安兵衛。お主は、事を成す前に己のことを考え抜いたのか?考えてはいまい。お主の周りに誰がおるのか、誰がお主のことを気にかけておるのか。」
 安兵衛は視線の先に映るキチを見つめる。
 キチは、須乃と何やら楽しげに話をしていた。キチの笑顔は、とても愛らしく安兵衛には眩しく映っていた。
― そうか、この笑顔にワシは救われていたのだな。―
 ふと多都馬の顔を見ると、やりきれない悲しみを堪えているように見える。
「仇討ち、仇討ちと死に急ぐお主を見せられるキチ殿の気持ちを、少しは考えたことがあるのか。」
 その笑顔に気付かなかった七年間が情けなくて安兵衛は拳に力を込めた。
「まだ時はある。大石殿がどうのこうの申す前に、己のことを少し見つめなおせ。」
 安兵衛は、多都馬に言われながらキチをずっと見つめていた。

            六

 安兵衛たちと入れ替わりに武太夫が多都馬を訪ねてきた。武太夫に連れられ広島藩浅野家上屋敷に赴くと、国家老の浅野忠義が多都馬を待っていた。
 多都馬は、この忠義という男が嫌いであった。本心をなかなか明かさぬところは内蔵助と同じだが、何事にも策を弄し卑劣なことも眉ひとつ動かさずに行う。辿り着こうとする境地は一緒でも、事を成す手段が多都馬とはまるで違う。
 忠義は多都馬を前に沈黙をしていた。重々しい空気に同席している武太夫は額の汗を拭っている。 
「呼び付けておいてだんまりですか・・・。」
「おい、多都馬。」
 忠義は多都馬を見据えたまま未だ口を開かない。
「話すことがないなら帰りますよ。」
 多都馬は立ち上がろうと腰を上げる。
「待て、多都馬。」
「こう見えても忙しいんでね。話があるならさっさと始めてもらえませんか。」
「多都馬。その方に申し伝えた儀、覚えておるかの。」
 忠義は含みを持たせて多都馬に言う。
「大石内蔵助の監視ならびに始末・・・でござりましょうか?」
「先程から無礼であるぞ。」
 武太夫が多都馬の物言いに注文をつける。
 多都馬の挑発に忠義は苦笑いをしているだけで相手しない。
「ワシは、広島藩で禄を()む藩士と、その家族のため協力しただけのこと。」
 多都馬の態度に武太夫は汗を描きっ放しで落ち着くことが出来ない。
「わかっておる。これからお主には、大石内蔵助の支援を頼みたい。」
「もうやっていますよ。」
 忠義は多都馬の言葉に驚く様子はなかった。
― なんだ。知っていやがったな。―
 多都馬の行動を掴んでいながら、敢えて言ってくるところが気に入らない。
「そうか。」
「やっと、殿のご意志通りに動けるということですか。」
「世情の風が、漸く我等に追い風となったのでな。」
 武太夫は二人の間でひたすら汗をかいている。
「どうじゃ、大石は事を託すに値する人物か?」
「あんたもタヌキだな。」
 事情を知り情報を掴んでいながらわざわざ聞いてくる忠義は、柳沢吉保以上の狡猾さである。
「大石殿が事を託すことが出来る人物かどうか。あんたはもう知っているんでしょう?」
「何を言うか。知らぬから聞いておるのだ。」
 多都馬のあからさまな嫌味にも忠義は眉一つ動かさない。
「そろそろ本音でお話しをされたらどうですかね。少しは気持ちも楽になりますよ。」
 武太夫は我慢が出来なくなり多都馬に掴みかかる。
「多都馬!お主、いい加減にいたせ!」
 体を入れ替え、かわされた武太夫は畳に顔を打ち付けてしまう。
「面倒臭いんですよ。こんな人の好い武太夫など使わさず、御家老自ら来られて頼むと言えばそれで済んだことではありませんか?」
「そうか。」
 忠義の表情は実に穏やかで多都馬の言う事を全て受け止めているようだった。
「確かにお取り潰しの後、大石殿の動向は公儀の注目を集めていた。仇討ちか、そうでないにしても浅野本家が情報を把握しておらぬでは公儀に太刀打ち出来ぬ。柳沢の真意は不明だが、最終的に本家を狙うとも限らない。」
 忠義は、多都馬の言うことを黙って聞いていた。
「進藤、小山田、奥野など高禄の者たちが仇討へ消極的だったのは、あんたの差し金だろう。」
忠義は、笑みを浮かべ多都馬を見つめている。
「まだある。大石の監視、そして始末の件。ワシ以外に何人に命じている。」
「多都馬。もうよいではないか。」
 武太夫は、忠義に対する多都馬の態度に生きた心地がしなかった。
「国許に間宮一刀流を遣う、間宮五郎兵衛久一という剣術指南役がいたが。」
「間宮がどうしたというのだ?」
「国許の剣術指南役の男が、何故江戸におるのか。」
 忠義の目つきが一瞬鋭くなる。
「何を言うか。三十七万石の広島藩とはいえ、藩の財政は逼迫しておるのだ。そのような余裕はないわ。」
 忠義は、多都馬のいうことを笑ってはぐらかす。
「一方では大石を支援し、もう一方では仇討を留まらせる。世の体制を見極め、どっちに転んでも浅野本家は痛手を被らないよう細工を施す。」
 かつて真田安房守昌幸(さなだあわのかみまさよさゆき)が “表裏比興(ひょうりひきょう)の者”と呼ばれていたが、この浅野忠義も負けてはいない。
「多都馬!」
 武太夫が眦を上げながら脇差に手を掛けた。
「武太夫。よいのだ。」
 興奮している武太夫を忠義がなだめた。
「わかった、わかった。では、申す通りワシの思うていたことを正直に話す。それでよいか?」
 今さら何を言っていると多都馬は歯牙にもかけない。
「最初から大石を支援せよでは、ご公儀に弓引くことになる。それに我等本家の支援をよいことに暴走する者も出てくるはず。まずは時勢を読み間違えず策を弄したまでだ。」
「・・・面倒くさいことで。」
 多都馬は吐き捨てるかのように言った。

          七

 上杉家上屋敷の茶室で色部又四郎は、右源太を相手に茶を点てていた。忍びの身ではあるが右源太は、こうした茶道にも通じていた。色部又四郎は右源太を米沢にいた頃より、常に目をかけ側近くに控えさせていた。
 右源太は色部又四郎が点てた茶を飲み、味を深く感じながら飲み干した。しみじみと茶碗を見つめている右源太に色部又四郎は声をかけた。
「如何した右源太。」
「いえ。見事な茶碗につい・・・。」
「らしゅうないことを申すの。」
 色部又四郎と右源太に笑みがこぼれた。
「茶の湯とは、ただ湯をわかし茶を点てて飲むばかりなる事と知るべし。」
「利休ですか。」
「左様。様々なことを知りすぎて形式的になってはいけないと申したらしい。純粋な心を持つことが大事ということだ。」
「はっ。」
「我等は策を弄し大石達、赤穂の者を切り崩しにかかった。」
 右源太は上杉家を支える苦悩を色部又四郎の表情を見て察した。切れ者と呼ばれていても、度重なる心労は隠せない。 
「しかし、何と難しいことよ。仇討ちじゃと純粋に思うておる者だちの結束を切ることは・・・。」
「まだ、使える手段はありまする。」
「何か考えがあると申すか?」
「赤穂の者たちの陰で、手助けを致しておる者が居りまする。」
「何者だ。」
「此奴、日本橋で調達屋を営んでおりまして、事あるたびに赤穂の者たちの窮地を救っております。」
「名は?」
「黛多都馬と申す浪人でございます。」
「浪人だと?」
 沸騰した湯が突然、釜から吹きこぼれる。
 沸騰している釜には目もくれず色部又四郎は、右源太から多都馬について情報を聞く。
「赤穂の者たちと如何な関わりがあると申すのだ。」
「元広島藩の剣術指南役で藩主綱長公格別のお取り立てだったとか。」
「対峙したことはあるのか?」
「浪士/中村清右衛門に強襲を掛けた折に一度。」
「手強いか。」
 右源太が大きく頷く。
「この者を排除することも此度の戦の要ではないかと存じます。」
「して、如何するのだ?」
「手前、黛と因縁ありし者を先ほどより(にじ)り口に控えさせております。」
 右源太が(にじ)り口の戸を開けると平伏している伊兵衛がいた。
 色部又四郎は、その伊兵衛を刺すような目で見つめていた。
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