心の刃 -忠臣蔵異聞-
第3章 邂 逅
          一

 旗本である黛家は徒目付の役職にあったが、多都馬の兄/登馬(とうま)の代になり徒目付組頭まで出世していた。
 二男であった多都馬は、部屋住みであることを嫌い武芸鍛錬のため諸国武者修行に出る。学んでいた無外流に磨きをかけるための旅であったが、旅の途中に出会った名もなき武芸者より「二階堂平法」を学び奥義を得た。
 奥義を得て江戸への帰路、兄/登馬が病にて亡くなったことを知る。数馬は幼くして母を亡くしていたため、頼るところは多都馬以外なかった。数馬を引き取り徒目付の役職を継ぐのだが、二人の運命を左右する出会いに遭遇する。
 芸州広島藩藩主である浅野綱長(あさのつななが)公参勤交代の列に、悲鳴を上げながら兄弟らしき子供が走り込んで来たのだ。子供たちは牙をむき出しにした、大型の野良犬の群れに追いかけられていた。
 綱長たちの行列に気付いた子供たちは、行列を避けて稲刈りの済んだ畑へと逃げて行く。綱吉の治世、「生類憐みの令」があり、犬を殺傷することは勿論のこと傷つけたりすることも出来ない。
 過去に起きた事例に次のようなものがある。評定所の前で犬が争い死んだため、旗本坂井政直は閉門の沙汰を下される。大久保・四谷に犬小屋が作られ、住民は強制的に立ち退き命令が出される。続いて鉄砲で鳥を殺し、その鳥で商売をしたとして大坂与力はじめ十人が切腹し一人が死罪。元禄九年には犬殺しを密告した者に賞金三十両が出されていた。
 殺さずとも傷つけ虐待しただけで公儀から処分が下されてしまうのだ。こうした前例もあり、行列の藩士たちは子供たちに対し手を差し伸べることが出来なかった。
 行列が突然停止したので、綱長は乗っている輿から顔を出して様子を窺った。
 泣きながら悲鳴を上げている子供の様子が綱長の目に入った。
「何をしている!早く子供を助けるのじゃ!」
 泣き叫んでいる子供を見て、綱長は思わず声を出してしまう。
「なりませぬ!」
 側用人/井上正信(いのうえまさのぶ)が、綱長を制して言う。
「なんじゃと!」
「殿は、生類憐みの令をお忘れになられましたか?」
「わかっておる。」
「なれば、御辛抱願いまする。」
 正信は綱長の前にひれ伏し必死に訴える。
「放ってはおけぬ。」
「なりません。」
 成す術はないのかと綱長を始め行列の誰もが思っていた。
 その時、危機的状況に陥った子供たちを救ったのが多都馬だった。多都馬は野良犬と子供たちの間に立ち、二階堂平法奥義「心の一方」を放って野良犬たちを身動き出来なくさせたのだ。
 野良犬たちが身動きできなくなっている間に、子供たちは安全なところへ逃げて行った。野良犬たちは、野生の勘が働いたのか多都馬に「心の一方」を解いてもらった後、一目散に逃げて行った。
 この光景を一部始終見ていた藩主/綱長は、多都馬を気に入り半ば強引に広島藩江戸詰の剣術指南役に引き抜いてしまった。多都馬の芸州広島藩の剣術指南役への顛末は、こうした経緯があったのだ。

          二

 広島藩江戸上屋敷の庭で綱長は多都馬を伴い弓の稽古をしていた。綱長の放った矢が、次々に的である俵に刺さっていく。綱長は差し出された弓を受け取り、多都馬に話しかける。
「そちの二階堂平法奥義・心の一方。そろそろ、あれを余に伝授してはくれまいか。」
「失礼ながら殿は、既に御年齢に無理がございます。」
「何?余の歳じゃと?」
「それに、私は二階堂平法を他の者に伝授するつもりは毛頭ございません。」
 予想もしなかった多都馬の言葉に綱長は驚いて目を丸くする。
「なぜじゃ。あれほどの技、失くすには惜しいと思わんのか・・・。」
 口を真一文字に結んだ多都馬は、何やら思い悩んだように綱長を見つめていた。そして、ゆっくりと穏やかに語り始めた。
「二階堂平法を伝授して下さった我が師は、名も無き武芸者でした。二階堂平法は、豊前小倉藩剣術指南役/松山主水(まつやまもんど)から学んだそうでございます。」
 綱長は、弓の鍛錬をやめ多都馬の話に聞き入る。
「この松山主水も、心の一方の使い手でございました。ただ、この心の一方のおかげで忌み恐れられ、藩の間では評判は良くなかったそうでございます。」
「出る杭は打たれるということか。秀でた才を妬む者は、どこにでもおるものじゃ。」
「そして松山主水は、ある抗争に巻き込まれ誅殺されました。原因は、恐らく奥義の伝授。」
「余も初めて見たときは、妖術の類いだと思うたほどじゃからの。」
「殿。思い描くことが出来ましょうか。心の一方を極めし者が集まった軍勢を・・・。」
 多都馬の言葉に、唾を飲み込み身震いする綱長であった。
「そちのような武芸者には効かぬであろうが、そのような武芸者は数少ないからの。それを集めた軍ならば無敵じゃ。」
「殿がそのようにお考えなされたように、小倉藩もまた同じように・・・。」
「松山主水は、世が再び乱世になることを恐れ封印したと申すか。」
「我が師は、松山主水より奥義の伝授を受けた数少ない門弟でしたが、これを機に小倉藩を脱し隠遁生活をしております。」
「憐れじゃの。」
「私には時を同じく二階堂平法を学んだ者がございましたが、我が師はその者を破門しております。」
「己の鍛錬ではなく、権力を欲した故じゃな?」
「はい。」
「多都馬。わかった。」
 綱長は残念そうに天を仰いで溜め息をついた。
「そちの言わんとすること、ようわかったぞ。」
「申し訳ござりません。」
「だが、多都馬。二階堂平法とて剣術が辿り着く境地は共通なはず。我が藩にて、これまで同様の指南を頼むぞ。」
「はっ。」
 綱長と多都馬は、主従の間ではあったが妙に馬が合う間柄であった。

          三

 多都馬が広島藩剣術指南役を辞するきっかけとなる事件がついに起きてしまう。播州赤穂藩江戸下屋敷にて剣術の御前試合が行われたのである。
 そこで多都馬は、赤穂藩江戸詰の腕に覚えのある藩士数名と立ち合った。無類の武芸好きである赤穂藩主/浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が多都馬の噂を耳にし、広島藩主/浅野綱長に頼み込んで実現した御前試合だった。
 綱長は長矩からの接待を受け、広島藩の家臣を引き連れていた。その日の長矩は、気持ちも高揚し朝から上機嫌であった。赤穂藩にも、高田馬場の仇討ちで名声を得た堀部安兵衛(ほりべやすべえ)を抱えていたからだ。元禄七年三月/安兵衛は、叔父甥の契りを結んだ菅野六郎左衛門(すがのろくろうざえもん)の助太刀をし三人を斬り伏せている。
「綱長殿。本日は夢のような立ち合いが実現致し、恐悦至極に存じます。」
 長矩が隣にいる綱長へ感謝の意を表す。
「綱長殿お抱えの剣術指南は二階堂平法を使うと聞きました。どのような剣術か大変興味深い、とくと拝見仕ります。」
「長矩。多都馬は並の剣術指南とはわけが違うぞ。赤穂藩に相手になるような者はおるのか?」
 綱長は試合で傷を負っては哀れと思い発した言葉だったが、長矩にはそのように伝わらず腕自慢の藩士たちのことを話し始めた。
「綱長殿。ご心配には及びませんぬ。こちらには、堀内道場の高弟/奥田孫太夫(おくだまごだゆう)。それに、あの高田馬場の仇討ちで名を馳せた堀部安兵衛がおりますので・・・。」
 長矩の鼻が僅かながら上を向いていた。
多都馬の対戦相手は高田郡兵衛(たかだぐんべえ)、奥田孫太夫、堀部安兵衛の三人だった。
 最初の相手は槍の達人/高田郡兵衛である。宝蔵院流高田派槍術/高田吉次の孫にあたる。郡兵衛は、槍を中段に構え多都馬の出足を待った。多都馬も中段に構えて郡兵衛の動きを待つ。
 郡兵衛は槍の特性を活かして多都馬の間合いの外から一気に攻める戦法を取った。郡兵衛は多都馬の木刀を叩き落そうと上段に構えなおし、落雷の如く打ち込み振り下ろしてくる。
 多都馬は、それを木刀でいなし目にも止まらぬ速さで郡兵衛の脇をすり抜けた。後ろを取られたと振向く郡兵衛の額には多都馬の木刀が寸前で止められていた。
「それまで!」
 広島藩国許の剣術指南役/間宮五郎兵衛久一(まみやごろべえひさかず)の声が邸内に響いた。
 次の相手は堀内道場の高弟/奥田孫太夫である。孫太夫は多都馬を強敵と見るや一刀両断の構えをとった。今度は多都馬から先に動いた。
 孫太夫は多都馬より先に動こうとしていた為、一瞬不意を突かれたようになる。しかし、流石に堀内道場の高弟である。孫太夫の木刀は唸りを上げ多都馬の頭上に襲い掛かる。しかし、多都馬は孫太夫の木刀を受け止め右へと払う。勢い余った孫太夫の体は、多都馬から僅かに逸れる。孫太夫は体勢を整えようと後ろへ下がるが、多都馬の木刀は下がる孫太夫の脇下を捉えていた。
「それまで!」
 再び間宮の声が邸内に響いた。
 綱長が隣にいる長矩の様子を横目で窺った。長矩は眉間にしわを寄せ、表情を曇らせながら握り拳を震わせていた。
「安兵衛!頼むぞ。」
 満を持して赤穂藩最後の砦とも言うべき、堀部安兵衛が立ち上がった。
 多都馬と安兵衛の視線が激しくぶつかり合う。
 間宮の掛け声とともに、安兵衛の激しい斬撃が多都馬を襲う。
 多都馬と安兵衛は、右から左、左から右へと激しく木刀を合わせる。
 木刀を合わせながら安兵衛はふと思っていた。
― 何故、二階堂平法を使わぬ。―
 その時、多都馬が上段から打ち込んでくる。
 安兵衛がこれを受け止め左へいなそうとするが刀が動かない。
― これは無外流の萬法帰一刀。またしても二階堂平法ではない。―
 安兵衛は体を後ろへ動かし多都馬の体勢を崩しにかかる。
 頭上が空いた多都馬めがけて安兵衛が木刀を振り下ろす。
「それまで!」
 間宮の声が響き安兵衛の勝利に見えたが、多都馬の木刀は安兵衛の左脇下を捉えていた。
「両者引き分けじゃ。」
 間宮の声で、多都馬と安兵衛は綱長と長矩へ向き直り平伏した。
 両者共に実力伯仲であった。
 長矩は安兵衛が引き分けに持ち込んだことで漸く表情が緩やかになった。
「多都馬とやら見事じゃ!安兵衛もよう戦うた!あっぱれである!」
 多都馬と安兵衛は、長矩の言葉に剣を納め平伏する。
 しかし、安兵衛は隣にいる多都馬を探るように見つめていた。

                  四

 多都馬は安兵衛に誘われ、赤穂藩上屋敷に逗留していた。その晩は安兵衛の役宅で、御前試合の話をしながら酒を酌み交わしていた。
「いや、拙者はその辺で・・・。」
 安兵衛は多都馬が酒を注ぐのを丁寧に断る。
吞兵衛安(のんべえやす)と噂されるお主ではないのか?」
「噂はあくまでも噂でござるよ。差し詰め高田馬場に出向く時、景気付けに一杯煽ったことが発端であろうよ。」
「十八人斬ったという瓦版の話も・・・。」
「拙者が斬り伏せたのは三人でごさる。」
 唖然としている多都馬の様子に安兵衛は笑い転げる。
 安兵衛は多都馬に酒を注ぎながら話を進めた。
「さて話を元に戻そう。確かにワシは孫太夫や郡兵衛よりも剣の腕は立つ。」
 多都馬は、何が言いたいのかと安兵衛の顔を覗き込む。
「しかし・・・。お主は、そのワシよりも腕が立つの。」
「相討ちだったではないか。」
 多都馬は、苦笑いしながら答える。
「そうではない。お主は赤穂藩の面目を立てるため故意に相討ちにしたのだろう。」
 立会時を思い出したのか安兵衛はに興奮気味に捲し立てる。
「故意に負けたのではあからさま過ぎるし、第一にワシが納得はしない。相討ちに見せてワシの面目と赤穂藩の面目を見事に立てさせた。どうじゃ、相違あるまい。立ち合うたから、わかるのよ。」
 安兵衛は多都馬の目をじっと見つめた。
 安兵衛の眼力に観念した多都馬は、故意に相討ちに持っていったことを認める。
「恐れ入った。貴殿の申す通りでござる。」
 安兵衛は、素直に己のことを認めた多都馬にまた感心する。
「お主のそういうところ、憎めぬのぉ~」
 多都馬も安兵衛の屈託のない笑顔と飾りのない仕草に、いつの間にか引き込まれていた。
「多都馬殿。いくつか聞きたいことがあるがよろしいか。」
「何かな?」
「お主の流派、二階堂平法と聞いていたが。だが、我等との試合では無外流で立ち合っておった。それは何故かお聞きしたい。それともう一つある。二階堂平法には奥義である”心の一方“というものがあるらしい。その奥義は無敵であると聞いたことがある。」
「無敵ではござらんよ。」
「ワシは、その場にはおらんので分からんが。以前、綱長様のお行列を乱した野良犬の群れを、その奥義で蹴散らしたとか。」
「その話、どこで聞かれた。」
「人の口に戸は立てられぬ、と申すではないか。」
 多都馬は、安兵衛の問いに暫く黙っていた。
「奥義、心の一方とは己が剣気を相手に叩きこみ動きを封じるという。」
 安兵衛は、二階堂平法を極めた多都馬の剣を目にしたかったのだ。
「安兵衛殿。先程も申した通り、奥義とはいえ”心の一方 “は無敵ではござらん。確かに”心の一方 “は己が剣気を相手に叩きこみ動きを封じる遠当てのようなもの。術者の剣気の強さにもよるが、常に死を覚悟している武芸者には通用せぬ。」
「死を覚悟と?」
「単に死を恐れぬということではござらん。死の恐怖を感じ、そこから生へ転じる極意を得ている者には効かぬ技でござる。」
「・・・しかし。そのような者は、そうはいまい。」
 安兵衛の目の前にいる黛多都馬という男は、その恐るべき技を会得した数少ない武芸者なのだ。
 心の一方の神髄を聞き背筋が凍る思いの安兵衛だった。 
「二階堂平法は、奥義 ”心の一方 “の存在で恐れられる剣術となっていた。その為あらぬ誤解も生む。故に、あのような衆目集まる場では控えておるのだ。」
「そうであったか。」
 圧倒的な強さは時として脅威を生んでしまうことに安兵衛は気付かなかった。
「すまぬ。」
 多都馬は二階堂平法を封印し、立ち合ったことを安兵衛に詫びた。
「いやいや。知らぬ事とはいえワシの方こそ、いらぬ事を聞いた。察するべきであった。」
 安兵衛の潔い謝罪に思わず笑みがこぼれる多都馬だった。
「しかし、お主の気遣いのおかげで我等も助かったわ。」
 安兵衛は笑いながら話す。
「助かったとは?」
「あの御前試合で、お主に全敗しておったら後々面倒なことになっておった。」
「まさか、それしきのことで。」
「いや、恐らく藩の面子にかけてお主との再試合を挑んでいたろうな。お主もそれを薄々感じておったから、故意に引き分けたのであろう?」
 多都馬は、安兵衛の話に大きくため息をつく。
 この浅野家も武士の面子と(しがらみ)がはびこる社会だったのだ。
― 武士とは、面倒なものだ。―

          五

 多都馬は、赤穂藩江戸上屋敷/堀部安兵衛宅の寝所で休んでいた。
― 堀部安兵衛か。なかなか面白い人物だったな。―
 寝所で今日を振り返りながら眠りに就こうとしていた。
 すると突然、多都馬の耳に女の悲鳴が入ってくる。
 障子戸を開け、悲鳴が聞こえる方へ足を運ぶ。
 すると藩主の長矩が侍女を追い立てているところに出くわしてしまう。
「殿。おやめ下さい。」
 正室/阿久里が長矩の腕を掴む。
 長矩は、阿久里を振り切り侍女を追い掛け回していた。
― 何事かと思えば…。―
 大名の女色趣味など、よく耳にする話である。
 長矩もその類であったかと引き返そうとする多都馬だが、長矩の左手に持っているものを見て顔をしかめる。
 長矩の左手には脇差が握られていた。
 時折、頭を押さえふらふらと酔っているかのように歩いている。
 騒ぎを聞きつけ家臣たちが起きてくる。
 その中には、先ほどまで一緒に酒を飲んでいた安兵衛もいた。
「殿!」
 諌める安兵衛を振り切り、長矩は侍女を追い詰める。
 長矩は、奇声を上げながら刀を抜く。
 侍女が長矩に斬られると思った瞬間、その間に多都馬が割って入る。
 多都馬は二階堂平法の奥義/「心の一方」を放って長矩の動きを封じた。「心の一方」の直撃を受けた長矩は身動きが出来なくなり、そのまま意識朦朧となって庭に突っ伏してしまう。
「殿!」
 長矩の身を案じて藩士たちが集まる。
― かぁーっ、やっちまった! ―
 藩士たちは、長矩の肩を揺さぶり意識を戻そうと必死になっている。
 侍女は他の阿久里付きの侍女達に連れられ屋敷奥に消えて行った。
 阿久里は多都馬に頭を下げ、後を追うように屋敷奥に去って行った。
 主君を打ちのめされ、集まった家臣たちが一斉に多都馬に向かって刀を抜く。暗闇の中で白刃が光る。
「おのれ。よくも殿を・・・。」
― 面倒くさいが、やるしかないか。―
 多都馬は、二階堂平法「心の一方」を放とうと構える。
 その時、安兵衛の声が屋敷内に鳴り響く。
「愚か者!黛殿は殿の窮地をお救い下された恩人である。刀を納めぃ!」
 二十から三十はいたであろう家臣たちが、安兵衛の声にすくみ上る。
― やれやれだ。全く。―
 家臣たちが、気絶している長矩を寝所まで運んで行く。
 安兵衛は、多都馬に一礼して邸宅に消えて行った。

           六

 侍女を救った多都馬だが、このことが発端となり芸州広島藩剣術指南役を辞することになる。
 赤穂藩は理由が理由だけに事を穏便に運ぼうとしていた。しかし、多都馬本人が自身の藩に届けを出してしまったのである。
 知らせを受けた浅野本家広島藩用人/井上正信は烈火の如く怒り、そのせいで額や首の血管が浮き出てしまっていた。元々、正信は外様の多都馬を毛嫌いしていた。綱長が一剣術指南の多都馬をことあるごとに重用していたことも、その要因の一つとなっていた。
「こともあろうに、藩主である長矩様を剣術で打ちのめすなど言語道断!」
 正信が持っていた扇子で、畳を叩く音が室内に響き渡る。
 浅野本家広島藩筆頭家老/浅野忠義(あさのただよし)は、無言で平伏している多都馬を見つめて尋ねる。
「何か仔細あっての事と、ワシも殿も考えておるが如何じゃ?」
 しかし、多都馬は平伏したまま無言を貫く。
「このままだと、赤穂藩に対し示しがつかぬ故、お役御免と相成り禄を召し上げられることになるのじゃぞ。」
 忠義が多都馬の顔を覗き込むように語りかける。
「結構でございます。殿にご迷惑がかからぬ方法は、拙者がお役御免となり禄を返上致すのが一番良いと存じます。」
 多都馬は忠義にそう言うと、面を上げ早々にその場を引き上げて行ってしまう。
「な、なんじゃ、あの態度は・・・。」
 呆気にとられている正信とは逆に、苦笑いをしている忠義であった。
「正信。あれでも多都馬は長矩様を庇っているのよ。」
「長矩様を庇うとは・・・。」
「先程赤穂藩江戸詰の藩士、堀部安兵衛という者が事の真相を訴えに参った。」
「事の真相・・・。」
 多都馬の処分しか考えていない正信は、忠義が何を知っているのか分からず怪訝な顔をしていた。
                 七

 (つかえ)という持病が発生すると、情緒不安定になる長矩は度々こういう騒動を起こしていた。過去にも数人が犠牲になり浪人になっている。後に四十七士として名を連ねる千馬三郎兵衛(せんば さぶろびょうえ)は、長矩との折り合いが悪く赤穂藩を去ろうとしていた。
 安兵衛の諫言により己を悔い改めた長矩は、多都馬を赤穂藩に取り立てようとする。しかし多都馬は、はっきりとこれを辞退している。
 広島藩の禄を離れた多都馬は、数馬と邸宅内の整理をしていた。居を移した後、調達屋を生業とすることは既に決めていた。安兵衛は多都馬の作業を手伝うため、妻/キチを連れ邸宅に来ていた。
 日が暮れる酉の刻に作業は一段落し、多都馬、安兵衛、キチは茶をすすりながら休んでいた。数馬は奥で自身の書物の整理を続けていた。 
「多都馬殿。」
 安兵衛は多都馬に向き直って、丁寧に頭を下げる。
「此度の事、誠に申し訳ない。許してくれ。」
「よしてくれ。お主に罪はござらぬ。」
「そんなことはない。我等家臣が不甲斐ないばかりにお主をこのような目に・・・。」
 隣にいる妻のキチの表情は、今にも泣きだしそうになっていた。
「いや、安兵衛殿。不謹慎かもしれぬが、此度のことはよい口実になったのだ。」
「口実?」
「うむ。城勤めは性に合わぬのでな・・・。」
 多都馬の言葉に安兵衛とキチは唖然としてしまう。そんな二人をよそに多都馬は声を上げて大笑いしている。
「叔父上、声が大きゅうございます。」
 数馬が仕舞いかけの本を片手に多都馬の隣へ座った。
 安兵衛は多都馬の隣にいる数馬に向き直り何度も頭を下げた。
「数馬殿。お主には、かける言葉も見つからぬ。」
「とんでもございません。堀部様は、何も悪くはありません。」
「その通り。よく言った数馬。」
 多都馬は、幼いながらも潔い物言いの数馬に感心し大声で叫んだ。
「悪いのは、全て叔父上でございますので。」
 数馬が鼻を上に向け声高に叫ぶ。
「な・・・なんじゃ。」
 多都馬は驚き、安兵衛とキチは目を丸くしていた。
「此度の事。元はと言えば、叔父上の身から出た錆。藩主であらせられる長矩様を事もあろうに剣術で打ちすえるなど、以ての外でございます。」
― 数馬の奴、御用人の狸親父と同じことを言いやがる。―
「しかし、数馬殿。多都馬殿はの・・・。」
 数馬は、安兵衛が言おうとすることを遮るように話しだす。
「叔父上ほどの手練の者ならば、技を繰り出さずとも事を納められるはずでございます。」
 多都馬は、敬服されているのか馬鹿にされているのかわからなくなっていた。
 安兵衛とキチは、数馬の大人びた物言いに思わず吹き出してしまう。
「何が可笑しいのですか?」
「いいや、何も可笑しくはないぞ。」
「数馬殿は、御立派でございます。」
 キチが笑いながら数馬の頭をなでる。
 幼子の如き扱いに、数馬は頬を膨らませて拗ねている。
 そこへ、広島藩筆頭家老/浅野忠義の使いが訪ねて来る。
「黛多都馬殿は、おいでか?」

          八

 長矩から事情を聞き、真相を知った藩主/浅野綱長は多都馬を広島藩上屋敷に呼び寄せた。大広間には綱長と浅野本家広島藩国家老/浅野忠義が多都馬を迎えた。
「多都馬、仔細を知らなかったのは余の落ち度である。許せ。」
 多都馬は平伏して答える。
「殿の落ち度ではござりませぬ。」
 綱長は、諦めきれずに多都馬を留まらせよう必死になる。
「余が長矩にきつく申しておく故、考え直してほしいのだが・・・。」
 多都馬は、一度上げた頭を再び下げる。
「長矩様も、十分悔いておられます。それに・・・。」
「うむ。」
 綱長は、多都馬の言葉を待った。
「城勤めは、もともと性に合いませぬ。」
 忠義は激高して答える。
「多都馬、殿に対し無礼だぞ。」
 普段の様子から、多都馬の気持ちは薄々感じていた綱長だった。綱長は忠義を制して半ば諦めた様子で言う。
「そうであったの。お主は、そういう男であった。」
「恐れ入り奉りまする。」
「しかし、多都馬よ。藩を離れては生活が立ち行かなくなるのではないのか。数馬のこともあろう。」
「いえ、某。江戸市中に懇意にしておる仲間がおりまする。その者達と商いをやろうと考えておりますれば…ご心配には及びませぬ。」
「藩を去っても、たまには余に顔を見せに来るのだぞ。」
「かしこまりました。」
 綱長の大きな溜め息が大広間に広がっていく。
「・・・殿。」
 忠義が綱長へ、何かを促す相図を送る。
「おぉ。そうじゃ!多都馬。」
 謀を思いついた様子の綱長は、一瞬にして表情を変えた。
「お主は未だ妻も娶らず自由気ままに暮らしておるそうじゃな。」
「それが、何か?」
 綱長の顔が何かを企んでいるかのように笑っている。
「殿。女子(おなご)のことなら拙者、間に合っております故お気遣いなきよう。」
「多都馬よ。お主は、確かに無類の強さを持っておる。天下無双の武芸者と言っても過言ではなかろう。しかし、まだ本当の強さを理解してはおらぬな。」
「本当の強さ・・・ですか。」
「そうじゃ、真の強さよ。」
「失礼ながら殿は、それを会得されておられるのでしょうか。」
 忠義が無礼を重ねる多都馬に堪えきれなくなり詰め寄ろうとする。綱長は笑みを浮かべながら、忠義に座るように手をかざした。
「会得はしておらぬが、意味はよう理解しておる。」 
 武芸者である多都馬に綱長は笑いながら意味あり気に言う。
「どうだ。わからぬか?」
「は・・・はぁ。」
「では、ワシがその答えを教えて進ぜよう。帰って待つがよい。」
― 殿が、勝ち誇った顔をなさる時はろくな事がない。―
 こうして多都馬は広島藩を去って行った。
 綱長は、多都馬の身を案じ生活のための金を持たせた。多都馬は受け取るのを拒んでいたが、綱長の面目を立て半分だけ受け取った。

          九

 数日後、広島藩士/御牧武太夫(ごまき ぶだゆう)は綱長の命を受け、上屋敷から日本橋の多都馬の店を訪れた。店の構えは大きくはないが、横三間ほどの二階建てのしっかりした造りであった。
 武太夫は、傍らに一人の娘を連れていた。肌の色は透き通るように白く、体の線は細く華奢な感じであった。しかし、前をしっかり見据えた目には力があり、意志の強さを感じ取ることが出来た。
 武太夫は娘と共に店内に入る。
 開いたばかりの多都馬の店は、長兵衛配下の者たちが右往左往して忙しそうであった。
「いらっしゃいませ!」
 武太夫を客だと思って声をかける。
「多都馬は、居るか?」
 武太夫の声に、数馬が奥から顔を出す。
「おっ、数馬か。多都馬を呼んでくれぬか?」
「叔父上は、ご不在にございます。」
「何?不在?」
 武太夫は困ったように娘の顔を見る。
「なんだ?ワシならここに居るぞ。」
 多都馬は店の暖簾の隙間から顔を出した。
 側にいた娘が多都馬に会釈をする。
「そなたは・・・。」
「その節は、ご迷惑をお掛け致しました。」
 その娘は、長矩に乱暴されそうになっていた侍女であった。
「私は、三次藩/奥右筆組頭(おくゆうひつくみがしら)築山弥左衛門(つきやまやざえもん)が娘、築山須乃(つきやま すの)と申します。」
 長矩の妻/阿久里付きの侍女だった須乃が、何故ここにいるのか多都馬自身は理解出来ずにいた。
 須乃は自分を助けたことで藩の剣術指南役を辞したことを安兵衛から聞いていた。
 数馬を引き取り育てているという多都馬の境遇を知り、二人の身の回り世話をする決意を固め阿久里に暇乞いを願い出ていたのだ。
「多都馬様は、未だに(やもめ)暮らしとお聞きいたしました。今日から私が身の回りのお世話をいたします。よろしくお願いいたします。」
「よろしくと申されても・・・。」
「何か、問題がお有りでしょうか。」
「それはそうでしょう。第一にそなたのお父上やお母上は、何と申しておるのか。」
「この度の事、父上や母上の賛同を得て参っておりまする。御心配には及びません。」
「しかしなぁ・・・。」
 いきなり現れた須乃に困惑している多都馬であった。
「多都馬様!」
 須乃の場の空気を引き締めるような声に多都馬と数馬の背筋が真っ直ぐに伸びる。
「もし、このまま私が帰らされたと分かれば阿久里様は元より、浅野本家/綱長様の御威光にも反するということになります。よろしいのですか?」
― そうか。殿のあの勝ち誇ったような顔の意味が今わかった。―
 綱長は、阿久里から相談を受け一筋縄ではいかない多都馬に一計を企てたのだ。
― やられた!―
「多都馬様?」
 須乃は呆然としている多都馬の顔を覗き込んでいる。
「し…しかし!」
「ご迷惑はおかけいたしませんので。」
 須乃はそう言うと、そそくさと部屋に上がってしまった。
 側に控えていた武太夫は、あたふたしている多都馬の様子を見て必死に笑いを堪えていた。
「何か可笑しいか?」
「いや、別に。」
 呆気に取られていた多都馬だが、朝の陽ざしのように眩しい須乃の笑顔にいつの間にか見とれていた。
 これが須乃と多都馬が、「調達屋」というひとつ屋根の下で暮らし始めるまでの顛末だった。

          十  
           
 調達屋の商いは長兵衛との良い連携が取れうまくいっていた。加えて須乃の存在も大きかった。身の回りの世話はもちろんのこと、客との掛け合いや算術など秀でた才を放っていた。
― 何という女子だ。―
 多都馬は、須乃の目覚ましい仕事ぶりに感心しどうしだった。
 しかし、多都馬には困っていることがある。亡き兄/登馬の忘れ形見/数馬のことだ。元々、多都馬のことを気疎く感じていたところへ須乃が介入して、ますます数馬との関係が難しくなっているのだ。
「数馬殿!朝餉の支度が整いましたよ。」
 須乃がいそいそと御櫃を運んで来る。
 数馬は身支度を整え、そそくさと部屋に入り座り込む。
「須乃殿。」
 座卓に料理を並べる須乃に声をかける。
「はい。」
 須乃は、後ろにいる数馬に向き直り笑顔を見せる。
 幼い数馬も須乃の屈託のない笑顔に、いつも拍子抜けしてしまう。
「わ・・・私は、もう童ではありません。そのように呼ばなくても朝餉の時刻には、しっかり起きて支度を整えております!」
 須乃は数馬の大人びた物言いに苦笑いする。
「私は叔父上とは違いますので!」
「どうした~数馬。ワシが何だって?」
 数馬は、眠たい目を擦りながら起きてくる多都馬を見て嫌気がさしている。
― どうして叔父上は、いつもこうなのだ。だらしなさ過ぎる。―
 数馬は上目遣いに多都馬を見る。
「何でもありません。早くお座り下さい。」
「おう。」
 須乃には、この二人のやり取りが可笑しくてならない。
「ん?何を笑うておる。」
「いえ、何でもありません。」
 二人を気にかけながら、須乃はそそくさと台所へ向かう。
 数馬が呆れてしまう多都馬のこうした振る舞いの裏には、生真面目な数馬を気遣ってのことだと須乃は感じ取っている。
 育ててもらっている叔父に遠慮する数馬を察してのことなのだと須乃は見抜いているのだ。
 成長し大人になれば、この叔父の心優しい気遣いがわかるようになる。須乃は朝餉の支度を整えながら二人の様子を微笑ましく見つめていた。
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