心の刃 -忠臣蔵異聞-
第5章 一月三舟
          一

 藤井又左衛門と安井彦右衛門は、屋形船に乗り夕暮れ時の隅田川を楽しんでいた。
「又左。早う事が成就し、ゆっくりとこの景色を楽しみたいものだな。」
 悠長なことを言う彦右衛門に、又左衛門は気を引き締めるよう釘を刺した。
「今はそのようなことを言うてる時ではあるまい。」
 二人の間に気まずい空気が漂った。
「又左。まさか屏風絵、手に入れて来るとは思わなんだわ。」
 彦右衛門が咳払いをばらいをひとつして話した。
「安兵衛め。余計なことを・・・。」
「吉良様から叱責される手筈になっていたものを…。」
 彦右衛門が爪を噛みながら悔しそうに呟く。
「弥兵衛と安兵衛は、殿の信頼も厚い。これからも企ての障害となってくるであろうな。」
 行燈の灯が又左衛門と彦右衛門の表情を怪しく映し出す。
「彦右衛門。我らが焦ってはいかん。殿があの状態になれば、そう簡単に治まるものでもないわ。」
「そうじゃな、痞えの症状も既に出ておることだし、何しろ我等には心強き後ろ盾がおる。」
「此度のことは、堀部親子にしてやられたが。あのようなこと、そう何度もあるわけではあるまい。」
 又左衛門の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「又左。御側用人様との繋ぎはどうしておる。」
「習慣となっては怪しまれる故、あのようなことが起きた時だけ取るようにしておる。」
「何か申していたか?」
 彦右衛門の声は、不安からか震えていた。
「心配ない。お主も、間もなく千石取りの侍じゃ・・・。」
「間違いないな。」
「大丈夫だ。」 
 又左衛門が彦右衛門の杯に酒を注いでいる。
「千石取りじゃ、千石取りじゃ。」
 彦右衛門はまるで暗示にかけられているかのように独り言のように呟く。
 二人を乗せた屋形船は、陰謀の闇へと静かに消えて行った。

          二

 多都馬は、安兵衛と共に江戸口入れ屋の長兵衛宅にいた。長兵衛の妻/おみねが料理を運んで来る。安兵衛に多都馬と二人きりにさせてほしいと頼まれ、おみねは座敷を出て行った。
「ごゆっくりなさいませ。」
「先日は大騒ぎで互いに苦労したな。」
 多都馬が安兵衛に酒を注いだ。
 安兵衛は、疲れた表情で注がれた酒を飲み干す。
「高家旗本/畠山様の急な指示変更と聞いたが・・・。」
「畠山様は、吉良様の指示を伝えに来ただけだ。」
「では、吉良様が屏風絵の変更を?」
 ため息をついて安兵衛が大きく頷いた。
「お主がおらなんだら、金屏風の絵は手に入らなかったかも知れぬ。」
「ワシは、江戸全域に繋ぎを持っておる。それがあの時に役に立った。」
「かたじけない。」
 安兵衛が多都馬に深々と頭を下げる。
「何度も言うがの。こちらは商売だ、礼をいうには及ばん。」
 多都馬は神妙な安兵衛を見て尋ねる。
「どうしたのだ。何か心配ごとでも?」
「あぁ。殿は今、勅使饗応接待の役を仰せつかっておる。」
「そのようだな。しかし、これが初めてではあるまい。饗応役も二度目となれば・・・。」
 多都馬の言葉を遮るように安兵衛が言葉を挟む。
「それが、そうもいかんのだ。」
「お役目に不都合でも生じたのか?」
 安兵衛は黙って頷いた。
「御家老の話によれば、吉良様が饗応接待の所作ならびに作法にまつわる備品など細かい指示変更を出してくるらしい。」
「それは致し方なかろう。吉良様は指導役だ、粗相があれば責任を取らねばならぬ。」
「それはそうだが。指示が安定せぬのは、こちらも困る。」
「上野介様も京都におわす故、文を出すにしても到着まで十四~五日はかかろう。指示がお主たちの元へ届くのに時がかかるのだ。」
 多都馬は気持ちをなだめようとしたが、険しい表情を変えぬ安兵衛を見て長矩の持病を思い出す。
「まさか、痞の病が・・・。」
 ため息を漏らしながら頷く安兵衛は、痞えの症状を抑える手立てが思い浮かばぬと肩を震わせている。
「痞の症状に合わせて、何やらご自身を追い込まれている御様子。まさに最悪の状態だ。」
「追い込むとはどのようなことだ。」
「度重なる急な指示変更を受けてからというもの、毎晩のようにうなされておる。」
 安兵衛は頭を抱え込み考え込んでしまう。安兵衛の様子を見て、多都馬は感じることがあった。長矩を筆頭に、赤穂藩の者たちは物事を真正面から考える人間が多い。
 もっと柔軟に、もっと視野を広めて事にあたらなければ、取り返しのつかない過ちを犯してしまう危険性もある。” 一月三舟 ”の言葉の通り、物事には様々な見え方があるのだ。
「安兵衛。内匠頭様の勅使饗応役接待のお役目、此度は病を理由にご辞退されてみてはどうだ。」
 多都馬の思わぬ提案に安兵衛は目を丸くして驚愕する。
「何だと!」
「合点がいかぬか。」
「当たり前だ!それでは、殿が・・・いや赤穂藩が物笑いの的になる。」
 安兵衛の顔がみるみるうちに紅潮している。
「恥をかき物笑いの的になるやも知れぬが、事が起きて取り返しのつかぬ事態になってしまっては元も子もない。」
「殿をそのようなお立場に立たせるようなことは出来ん!」
「笑いたい奴には、笑わせておけばよいではないか。」
「何を申すか!」
「勅使饗応役といえば、年賀に対しての返礼の儀式。何か粗相があれば長矩様ご自身だけでは済まぬかもしれん。」
 安兵衛は、眉間にしわを寄せ多都馬の言葉を聞いている。
「江戸方だけで済む話でもあるまい。国許の家老に相談するのも一つの策だ。」
「国許の大石という家老は昼行燈と呼ばれておる。当てにはならん。」
「とにかく命さえ無事であれば、また名を馳せる日が来るというもの。」
 多都馬に返す言葉もなく、安兵衛は全身を震わせながら座敷を出て行ってしまう。
「安兵衛!」
 心配して長兵衛が座敷に入ってくる。
「堀部様、どうかなさったんですか?」
「いや・・・。武士とはな、いろいろと面倒なものなのだ。」

          三       

 公務を終えた義央は、所司代の屋敷にて義寧からの書状に目を通していた。書状の中身は、義寧が度重なる指示変更への抗議を浅野家から受けていると綴られていた。義央は指示した内容について意義を申し立てている長矩へ不信感を募らせる。
「利右衛門。なんじゃ、この書状は。」
 吉良家用人/鳥居利右衛門は、送られてきた書状を義央から受け取り目を通す。
「これは…。」
 内容を見て言葉が出てこない。
「饗応役を仰せつかった頃は、別段不都合は起きておらなかったではないか。」
「はい。」
「しかし、どうしたのじゃ。何故、わしが指示したとおりに事を運べんのじゃ?」
 利右衛門も、理由が分からず首をひねるばかりであった。
「内匠頭様は、此度が初めてではないはずですが・・・。」 
「初めて饗応役を仰せつかっている伊達殿のほうは如何じゃ?」
「今日までつつがなく…。」
「ワシの書状は義寧のところへ届いておるのか?」
「義寧様からの返信から察するにお手元に届いておるはず。」
「しかし、義寧の書状の中に例年に違う事を内匠頭殿が行い困っておると認めておるのだ。」
 利右衛門は、再度義寧からの書状を読み返す。
「何か内匠頭様の御心境の変化でしょうか・・・。十八年前とは、確かにご対応に差があり過ぎます。接待費用も七百両とは、世情を知らな過ぎまする。」
「物価も十八年前とは違うのじゃ、物の値段が上がれば当然接待費用も上がる。」
「やはり殿が直々に御指導せねば・・・。万が一粗相がございましたら、指導不行き届きにて責任は我等吉良家も負うことになりまする。」
 義央は言葉を失い、溜息をついて天を仰いだ。
「二月二十九日までには、江戸に戻ることが出来よう。対処は、それからじゃ。」

          四

 一方長矩は、痞の症状による被害妄想で不眠状態が続いていた。その日も、朝からの頭痛に悩まされていた。長矩の妻/阿久里が数日前から側で、世話をしていたが症状は回復しなかった。
「又左!」
「はっ。」
 江戸家老/藤井又左衛門が長矩の御前に駆け込んでくる。
「先日の金屏風、あれはいかが相成った?」
「無事、調達屋のところから手に入れております。どうか、御安心下さりませ。」
「また、上野介が急き立てるように難癖を突いて参るやも知れぬ。」
「困ったものでございます。」
 又左衛門が長矩の言葉に同調して話す。
「きっと、御仲介役の畠山殿がよく執り成して下さります。」
 阿久里が長矩を(いたわ)り言う。
「わしは、上野介の指示通りに動いておる。それを準備万端整ったときを狙うように指示変更の指図じゃ。」
 長矩は頭を抱え込んで悶絶してしまう。
「殿。」
 阿久里が優しく長矩に声をかける。
「お辛いでしょうが、今暫くの御辛抱をお願いいたしまする。殿の下には、何百という家臣その家族、そして郎党たちがいるのです。」
「わかっておる。余が全て辛抱いたせばよいのじゃ・・・。わかっておる。」
「又左衛門。もうよい、下がりなさい。」
 阿久里が又左衛門に退くように指図をする。
 長矩は義央に対して一触即発の様相を呈していた。

          五

 早朝、日本橋も人の往来はまだない。活気づいているのは魚河岸くらいで多都馬も家へ帰る間、数人の天秤棒をかついだ棒手振りとすれ違っている。
 多都馬は、酔いも冷めぬまま調達屋の店先の前に置かれている腰掛けに座り、ぼんやりと通りを眺めていた。
 安兵衛が怒って酒席を立ち去ってから日数が経っていた。その後、赤穂藩からも安兵衛からも音沙汰はない。便りの無いのは良い便りというが、多都馬は胸騒ぎを感じずにはいられなかった。
 早出の飛脚が、多都馬の様子を呆れたように見て通り過ぎる。
― 須乃たちは、まだ眠っていよう。―
 昨夜から朝方まで長兵衛たちと飲み明かし帰る時を逸してしまった。
 多都馬の脳裏にふと数馬の怒った顔が浮かぶ。だらしない事が一番嫌いな数馬である。このように飲んだくれて朝帰りとなると、子供ながらにとてつもない形相で怒り始める。
― 数馬が起きぬうちに入らぬと面倒だな・・・。―
 そんな事を思いながら佇んでいると、寒さで体に震えが走る。
 三月とはいえ、朝の冷え込みは厳しかった。
「今日は、三月十一日か・・・。」
 朝廷からの勅使が到着する日だった。
 御勅旨饗応接待のお役目は、ここからが正念場なのだ。
 屏風絵の一件が多都馬の頭を過《よぎ》る。
― あの一件は、数ある問題の中の一つに過ぎないであろう。恐らく他にも似たようなことが浅野家で起きているに違いない。―
 多都馬は伝奏屋敷の方角を見つめ、安兵衛ら赤穂藩の行く末を案じていた。

          六

 勅使饗応接待の一日目が終わった。
 しかし、赤穂藩の家臣たちは確認作業に余念がなかった。長矩の痞えの病状は変わらず、病鉢巻を巻き床に伏せっていた。
 側には阿久里と戸田の局、藤井・安井の両名、堀部弥兵衛が付いていた。
「済まぬ。この大事な時にその方等の力になれず。」
「何をおっしゃられますか。主の為に心血注ぐは家臣の努め、殿は気にせず、ご自身のことだけを考えればよろしいのです。」
 弥兵衛は、身を乗り出して長矩を気遣う。
「余は、上野介にとやかく言われるような事は何も致してはおらぬ。」
「如何にも!殿は吉良様からご指摘を受けるような事は何も致してはおりませぬ。」
 藤井又左衛門に続き、その横に控える安井彦右衛門も同調して言う。
「吉良様は我等赤穂を目の仇にされておる。何の遺恨があってのことか・・・。」
 弥兵衛は、ことさら不安を煽る藤井と安井を睨みつけた。
「殿。明日もございますれば、今日はもうお休みくださいませ。」
 阿久里が藤井等に出て行くよう目配せをして長矩に眠るよう促す。
「殿。では我等はこれにて失礼いたしまする。」
 藤井と安井が先に部屋を出て弥兵衛は最後に出て行く。
「御家老。」
 弥兵衛の呼びかけに藤井と安井が振り返る。
「御老体、何ようかな。」
「お二人は、家老職でありながら何故殿の不安を煽るような物言いばかりされるのか。」
 弥兵衛の言葉を受けて、又左衛門と彦右衛門は振り返り目を合わせる。
「御老体、それは誤解でござる。我等、これでも殿の御為に心骨を砕いておりまする。」
「身の保身ばかりに心を砕いているようにしか見えんがの。」
「言いがかりをつけるのはお止め下され。」
 彦右衛門が興奮して口を開く。
「言いがかりを付けられたくなかったら、家老職の役目を全うしたらどうじゃ。」
「無礼だぞ、弥兵衛!」
 弥兵衛の言葉に我慢できなくなった彦右衛門が大声で怒鳴る。
「殿は病を押して我等家臣の為に苦労しておられるのじゃ。これ以上、お苦しみあそばされぬよう対処するのが家臣の役目でないのか。」
 弥兵衛に掴みかかりそうな彦右衛門を又左衛門が押さえる。
「御老体。有難き御忠告、肝に命じまする。」
 又左衛門は、弥兵衛を軽くあしらいながら足早に去っていった。
「義父上!」
 安兵衛が騒ぎを聞きつけ、弥兵衛の元へ歩み寄る。
「如何なされました。」
「ん?何でもない。」
 弥兵衛は、安兵衛に悟られまいと足早に去って行った。安兵衛は弥兵衛の様子が変わっていた事に気付いていた。
―何があったというのだ・・・。―
 長矩の部屋からは病に苦しむ長矩の声が聞こえて来ていた。

          七

 翌十二日は、勅使/院使の一行が江戸城に入り将軍綱吉に勅宣、院宣を伝える日であった。勅使/院使の接待役を務める長矩は、次第に悪化していく体の不調に悩まされていた。
 伝奏屋敷内に長矩の補佐を務める藩士たちも、準備に忙殺され必死であった。堀部弥兵衛は、朝から落ち着くことが出来ず伝奏屋敷に出向いていた。
 弥兵衛は、額に汗をかき配下に指示を下している安兵衛を見つける。
「安兵衛!」
 どこからか自分を呼ぶ声に戸惑う安兵衛であったが、廊下の隅で作業の邪魔にならぬように立っている弥兵衛に気付く。
「義父上。如何なされましたか?」
「殿のご様子は?」
「はい、朝から御気分が優れぬご様子で・・・。」
「そうか・・・。」
「義父上、それを心配してわざわざ?」
「それもあるが、別の用件があっての。」
 安兵衛は、弥兵衛と彦右衛門が言い争っていた昨夜のことを思い出す。
「安兵衛、吉良様のご指示には十分注意をするのだ。」
「吉良様の?」
 弥兵衛は、黙って頷いた。
「おかしいとは思わぬか。」
「何がでございましょう。」
「準備万端整えた時、それに合わせたかのように変更の指示を出してくるとは・・・。」
「まさか!」
「指南役のお立場なれば首尾よく事を運ぶため、度重なる指示の変更も止む得ぬ事ではあるが、余りにもそれが多すぎる。伊達家にそれとなく使いの者を送り調べさせたが、我が浅野家が受けている様なことは起きてはおらぬ。その為か、殿も苦心されておる。」
「何故、吉良様は我等に対しそのような事を・・・。」
「確かなことではないが、藤井の話では吉良様への進物が要因のひとつになっておるらしい。」
「そんな馬鹿な・・・。」
 安兵衛も長矩への度重なる指示変更は、義央が指南する立場故止むを得ず行っていたと思っていた。しかし、それが進物の額が理由であるとは思っていなかった。
「本来ならば、家老である藤井安井の両名が殿の盾となるべきではあるが・・・。あの者たちは身の保身ばかり考えておる連中じゃ。何の役にも立たぬ。」
「義父上。」
「ワシと其方で饗応役のお役目に際し、事があるごとに必ず裏を取っておくしかない。」
「裏を・・・。」
「そうじゃ、急な指示変更など無いようにな・・・。殿をこれ以上追い詰めるようなことがあってはならぬ。」
「はい。」
 弥兵衛は、安兵衛にそう指示すると足早に伝奏屋敷から立ち去って行った。
 安兵衛は弥兵衛を見送りながら、長矩の勅使饗応役に何か言い知れぬ胸騒ぎを感じていた。

          八

 多都馬は調達屋の自宅に長兵衛を迎えて、日が落ちぬ頃から柳川鍋を突つきながら酒を飲んでいた。
「何やら皆さまにお持ちした土産だと言うのに、私までご相伴に預かり申し訳ありやせん。」
「何を言うか。美味いものは皆でこうして食った方がよいのだ。」
 須乃が、台所から漬物を運んで来る。
「須乃。そなたもここに座って一緒に食え。」
「はい。そのつもりでございます。」
 須乃の愛らしく気兼ねのない笑顔に、多都馬の顔も自然と綻んだ。
「数馬は、どうしておる?」
「数馬殿は、お仲間の方々と学問所に集まり勉学だと朝出掛けに申しておりましたよ。」
「へぇ~、そいつは大したもんだ。数馬様の御将来が楽しみですな。」
 長兵衛は成人し立派になっている姿を思い浮かべる。
「あいつは、勉学のし過ぎだ。かえって頭が悪くなるのではないか。」
「そんなことを申されてよいのですか?数馬殿が聞いたら怒りますよ。」
 須乃と長兵衛は、多都馬の冗談に腹を抱えて笑っている。
 そんな三人の様子を、数馬が柱の陰から覗いていた。
「叔父上。」
 数馬の声に、多都馬たちは驚いて振り返る。
「か・・・数馬。なんだ、勉学で遅うなるんじゃなかったのか?」
「そのつもりでございましたが皆、用事が出来て無くなりました。」
 数馬は先ほどからの会話を全て聞いていたような顔をして立っていた。
「ま、数馬様。お先に失礼いたしておりましたが、どうですかご一緒に。」
 数馬は口をへの字にしながらも長兵衛に促され須乃の横に座る。
「長兵衛。随分と楽し気に笑うておったようだな。」
 数馬は、わざと冷ややかな物言いを長兵衛にする。
「い、いえ。何もそのような楽しいことなんか・・・別に。」
 必死にその場を取り繕う長兵衛だが言葉が出てこない。
「叔父上。申し上げてもよろしいですか?」
「ん?」
「勉学のし過ぎで頭が悪くなることなど有り得ません。」
 多都馬たちは顔を見合せてバツが悪そうに肩をすくめる。
「多都馬様。そういえば安兵衛様は如何しておられるのでしょう。」
 須乃が場の空気を変えようと話題をそらす。
 須乃は以前から安兵衛の妻/キチが疲労困憊で元気がないことを気にかけていた。
「安兵衛は今、藩を挙げてのお役目に奔走中だ。」
「叔父上も、その堀部様を見習ってください。」
「あぁ?」
「主のために忠義を尽くし、お役目を全うする。武士とは、そういうものでございます。」
 返す言葉も無い、数馬の言う通りであった。
「しかし、お武家様の儀式っていうものは大変なものなのですね~。」
 たくあんを摘まみながら長兵衛が呟いた。
「面子と大儀を重んじるつまらぬ世界よ。」
「叔父上!」
 数馬が多都馬を睨みつける。
 数馬の真っ直ぐな視線が多都馬に突き刺さる。
「何より・・・。」
 須乃が神妙な面持ちで話し始める。
 須乃の顔には、先程までの笑顔は無くなっていた。
「・・・何事も無く無事に済んで頂きたいですね。」
 須乃の言葉は、多都馬を含め皆がそう思っていた。 
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