心の刃 -忠臣蔵異聞-
第6話 松の廊下
                  一

 そして元禄十四年三月十四日、運命の事件は起きる。浅野内匠頭長矩が江戸城内/松の廊下にて吉良上野介義央へ刃傷に及んでしまうのである。長矩の痞の症状は回復せず、症状は更に悪化していた。江戸城への登城の際にも、幾度も嘔吐を繰り返していた。今となっては役目変更の願いを出すわけにもいかず、勅使饗応役の勤めは果たさねばならなかった。長矩は烏帽子代紋に着替え、白書院で行われる儀式のため支度の間に控えていた。
「源五。上野介が、また何か言うてくるかもしれぬ。」
 赤穂藩小姓/片岡(かたおか)源五右衛門(げんごえもん)は供待ちをし、終始長矩の側にいた。
「そのようなことはありませぬ。」
 源五右衛門は、長矩の気持ちを落ち着かせようと繰り返し言っていた。
「しかしの…。これまでも、準備が整うた時を狙うかのよう言って参ったではないか。」
 長矩の額にはうっすらと汗が浮かんでくる。
「この場において儀式の変更など有り得ませぬ。」
「事と次第によっては上野介、我等赤穂の失態を狙うておるやも知れぬぞ…。」
「まさか、そのようなことは…。」
 勅使接待最後の日ということもあって、長矩の精神状態は極限まで追い込まれていた。
「殿。何の心配もござりませぬ故、どうかお心を平らかに・・・。」
「わ・・・わかった。わかっておる。」
 長矩は勅答の儀が開始されるため、支度の間から出て行った。
 源五右衛門は、祈るような面持ちで長矩の後姿を見つめていた。

                  二

 江戸留守居番/梶川(かじかわ)与惣兵衛(よそべえ)は「松の廊下」を歩いていた。
 長矩が与惣兵衛を見つけ歩いてくる。
「浅野様。諸事よろしくお願い申し上げまする。」
 与惣兵衛は、長矩に頭を下げた。
「心得てござる。」
 長矩は与惣兵衛に答えると、白書院へ歩いて行った。
 義央に尋ねたいことがあった与惣兵衛は、側にいた茶坊主に探すように命じた。
 長矩は、与惣兵衛が義央の名前を口にしたのを耳にして足を止める。
 与惣兵衛が辺りを見渡すと茶坊主に呼び止められた義央が立っていた。
 義央は与惣兵衛を見つけて歩み寄って来る。
「梶川殿、何か拙者に尋ねられたき用があるとか?」
「御勅使が参られる時間が少し早うなるのでしょうか。」
「うむ。少々早まるかも知れませぬな。」
「内匠頭殿に限らず、左京亮殿にも絶えず御勅使様への気配り忘れぬよう申し伝えておる。万事抜かりはない故、安心召されよ。」
「左様で御座いますか。これも吉良様のご指導の賜物でござりましょう。」
 そこへ長矩と同じく勅使饗応接待役の伊達(だて)左京亮(さきょうのすけ)が歩いてくる。
 畠山義寧も松の廊下に現れ、伊達左京亮の後を歩いてくる。
 義寧は立ち止まっている長矩とすれ違った。表情は暗く肌の色は血の気がなく病人のようであった。
 義寧は長矩の表情を確認した後、梶川与惣兵衛と話をしている義央の元へ急いだ。
「上野介様。お耳を・・・。」
 義央は、義寧に耳を傾ける。
 梶川与惣兵衛は、遠慮をして二人から離れる。
 長矩は、この二人の様子をじっと見つめていた。その目は虚ろで疑心暗鬼になっていた。
 義寧から耳を離し、義央が不機嫌そうに顔をしかめる。
「そのようなこと、今ここにあって申すことではあるまい。浅野殿や伊達殿が見たら不快に思うではないか。」
 義寧に苛立ちを押さえきれず、義央は思わず声を荒げた。
 長矩は義央から自分の名前が聞こえたことに反応して表情を歪める。手は次第に震え、頭が朦朧としてふらつき始めている。
「あ、吉良様。先程お話しした件でございますが・・・。」
 梶川与惣兵衛が伝え損ねたことを思い出し、離れた場所から義央を呼び止めた。
 自分たちのところへ歩いてくる人物を、梶川与惣兵衛は視界の端に捉える。
 その人物は千鳥足で義央に向かって歩いていた。戸が閉められ薄暗い廊下で歩いてくる男の人相は判らなかった。その人物が眼前にまで近づいてきた時、浅野内匠頭長矩であることがわかった。手には儀式に使用する小さ刀を持っていた。
 梶川与惣兵衛は、対面している義央に声をかける。
「吉良様!」
 義央が梶川与惣兵衛の見つめる方へ振り返る。
「うわぁ~」
 長矩は言葉にならない何かを叫びながら、義央の額に斬りつける。
 義央の烏帽子の金具の部分に当たったのか金属音が鳴り響く。
 長矩に斬りつけられた勢いで義央が、その場に昏倒する。
「内匠頭殿!何をする!」
 義央はなんとか立ち上がり襲い掛かって来る長矩から逃げる。
 逃げる義央の背中に長矩が再び斬りつける。
 背中を斬りつけられ、義央がその場に倒れる。
「乱心じゃ!内匠頭殿の乱心じゃ!」
 義央の叫び声が松の廊下に響き渡る。
 義央は床を這いながら逃げていく。
 長矩は逃げる義央を追うが、烏帽子代紋の袴が足にまとわりついて思うように動けない。
「浅野様!殿中でござる、殿中でござりまするぞ!」
 すぐ側にいた梶川与惣兵衛が長矩を羽交い絞めにする。
 近くにいた茶坊主も加わり長矩を取り押さえたため致命傷は義央に加えられなかった。
 長矩は、意味不明な言葉を叫びながらもなお暴れていた。
「浅野様!浅野様!」
 梶川与惣兵衛が長矩を正気に戻そうと必死に名前を叫んだ。
 騒ぎは瞬時に城内に広まり騒然となった。勅使饗応の儀式も一時中断になる。取り押さえられ長矩は、直ちに柳之間の奥に連行されていった。
 義央は、義寧らに抱えられ蘇鉄の間に運ばれて治療を行う。治療には外科医・栗崎《くりさき》道有《どうう》が当たった。
 幸いにも義央の傷は浅く大事には至らなかった。

                  三

 朝廷との儀式である勅答の儀を台無しにされた将軍/綱吉の怒りは、凄まじく吉保の報告を受けるとその場で採決を言い渡した。内容は長矩が切腹および領地お取り上げ、一方義央は場所柄をわきまえ態度神妙にてお構いなしとの沙汰だった。
 この採決に吉保も少し驚いていた。古《いにしえ》より定められた喧嘩両成敗があり、これに照し合せれば吉良家にも同様の措置がとられるはずなのだ。
― 喧嘩両成敗ではないということか。―
 予想通りの採決に至らなかったことに戸惑う吉保だった。このままでは赤穂藩のみの沙汰になり採決に不満を持つ者が現れてしまう。公儀への不満、即ち綱吉へと注がれてしまう。
「上様。申し上げたき儀がございます。」
 綱吉の機嫌は、一向に良くならず怒りが収まってはいなかった。
「なんじゃ!」
「浅野内匠頭、松の廊下にての刃傷。誠に持って許し難く領地召し上げの上、切腹申し付ける御処分。後の世まで語り継がれる見事なお裁きでございます。が・・・。しかしながら上野介に場所柄をわきまえ御咎めなしとは、余りに一方的なお裁き。頼朝公以来、源氏の長たる御家の御大法に反するお裁きかと存じます。」
 吉保が必死に綱吉へ言上する。
「吉保。そちは此度の刃傷、浅野と吉良の喧嘩であると申すのか?」
 息遣いの荒かった綱吉の声が、落ち着きを取り戻したかのように柔らかい。
「はっ。それは詳しく詮議致した上で・・・。」
「愚か者!」
 吉保の言葉を遮るように、綱吉は目を剥き出して声高に叫ぶ。
「此度の刃傷、吉良上野介は何も身に覚えはないと申しておるのじゃ。」
「それは・・・。」
「詮議など必要ない!」
「上様!」
 綱吉は吉保に口を挟む間も与えない。
「そもそも上野介は、脇差にも手をかけておらん。一方、内匠頭は卑怯にも上野介を後ろから斬りつけておる。武士にあるまじき所業じゃ。上野介には何の落ち度があろうか。どうじゃ、吉保!」
「恐れ入りまする。」
「それに今日、この日をなんと心得る!朝廷から勅使をお迎えする日ぞ!」
 綱吉の額には血管が浮き出ていた。
「無事儀式が執り行えた暁には・・・。その暁には・・・。」
 吉保は怒りに打ち震える綱吉の顔を見ることが出来なかった。
「桂昌院様の官位従一位の贈位が朝廷からもたらされる手はずに・・・。」
「はっ。申し訳ござりませぬ。」
「おのれ~、内匠頭め!」
 綱吉は怒りのあまり絶叫していた。
「吉保、重ねて申し付ける。内匠頭は切腹じゃ。よいかっ!」
「はっ。」
「それよりも勅答の儀、その後、如何相成った!」
「御場所を白書院から黒書院に変更致し、内匠頭の替わりに戸田能登守がお役目を務め、饗応役を仰せつかっておりました伊達左京亮宗春(後に村豊)が無事役目を果たしております。」
「うむ。良きに計らえ。」
 この時、綱吉も吉保も一年九ヶ月後に大事件が起こるなど予想だにしなかった。

                  四

 多都馬のところへも事件の報告が、安兵衛の妻/キチより伝えられる。
 キチは調達屋の暖簾を潜り、店内で多都馬を呼んだ。
「多都馬様!多都馬様!」
 多都馬と須乃は、騒ぎを聞きつけ二階から降りてくる。
 キチの様子から異変が起きたことは明らかであった。
「キチ殿、如何された。」
「今、主人/安兵衛の使いの者が知らせを・・・。」
「それで。」
「長矩様が城内、松の廊下にて刃傷。」
「何っ、刃傷だと!」
「はい、お相手は高家筆頭/吉良上野介義央様・・・。」
 キチは、多都馬にそう伝えると膝から崩れ落ちる。
「キチ殿!しっかりいたせ!」
 多都馬は、崩れ落ち震えているキチを引き起こす。
「安兵衛は?安兵衛は如何しておる。」
 多都馬は、キチを抱えて問い詰める。
「わかりませぬが、恐らくは江戸城内にて、その後の連絡を待っているものと思われます。」
 キチは多都馬に早々に報告を済ませると、赤穂藩江戸上屋敷に戻って行った。
「多都馬様・・・。」
 須乃が心細そうに多都馬の側に座り手を握ってくる。
 数馬は二階から降りてくる階段の途中で震えていた。
「えらいことになってしまった。」
 須乃は言葉を失い、震え出してしまう。
「殿中での刃傷。・・・ただでは済むまい。」
 事の次第は、まさに多都馬の予期していた通りになってしまったのである。

                  五

 午の下刻(午後1時50分頃)、長矩は陸奥一関藩主・田村右京太夫建顕の屋敷にお預けが決まった。建顕は一関藩藩士七十五名を長矩身柄受け取りのために江戸城へ派遣する。
 長矩は未の下刻(午後3時50分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられ、不浄門とされた平川口門より江戸城を出て田村邸へと送られる。
 申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付/庄田安利(しょうだやすとし)、副検使役として目付/多門重共(おかどしげとも)、目付/大久保忠鎮(おおくぼただしげ)らが田村右京大夫(たむらうきょうだゆう)の屋敷に到着する。
 切腹ならびに改易との宣告が終わると直ちに障子が開けられ、長矩は庭先の切腹場へと移されていく。
 この時、目付/多門重共(おかどしげとも)が庭先での切腹について抗議したと「多門筆記」に記載されているが定かではない。しかしその後、正検使役だった庄田安利は吉良側の旗本二名と共に勤めがよくないという理由でお役御免となっている。
 やはり庭先において長矩を切腹させた事が、要因の一つにあることは考えられることである。
 庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、長矩は磯田武大夫(いそだぶだゆう)幕府徒目付(ばくふかちめつけ)の介錯で切腹して果てた。享年三十五。
―風さそう、花よりもなお、我はまた、春の名残を、いかにとかせん―
 長矩の辞世の句として有名だが、「多門筆記」にしか記載されておらず、長矩の辞世の句と断定するには信憑性に欠けるという説もある。しかし、こうした日記が書かれるということは、綱吉の独断で採決した事件に他の大名や旗本も長矩への同情論が高まっていったということの表れであった。
 その後、田村家から知らせを受けた赤穂藩士/片岡源五右衛門ら六名が長矩の遺体を引き取り泉岳寺に埋葬した。

                    六

 広島藩江戸上屋敷は、長矩の刃傷事件で大騒ぎになっていた。
 綱長も嗣子/吉長(よしなが)の屋敷で能鑑賞の最中だったが、それを直ちに中断し鉄砲洲にある赤穂藩上屋敷に使者を使わせた。
忠義(ただよし)!使者はまだ戻らぬかっ」
 広島藩/筆頭家老の浅野忠義も綱長同様に使者からの報告を待っていた。
「暫く!今、暫くお待ち下さい。」
 忠義(ただよし)が動揺している綱長を静めようとしたとき、廊下を走る音が聞こえてくる。
「ご注進!」
 鉄砲洲に行っていた使者が息も絶え絶えに報告する。
「長矩は如何相成った!」
「浅野内匠頭長矩様、上様直々の御沙汰により田村右京大夫建顕様お屋敷にて切腹。ご領地はお召し上げと相成りました。」
「即日、切腹ということか!」
 普段、声を荒げることのない忠義《ただよし》も驚愕して言った。
「なんの詮議もなしとは、どういう事だ。」
「上様におかれましては大変ご立腹のご様子、即日のご裁断であったと聞き及びました。」
 使者は俯き悔しさを堪え、肩を震わせていた。
 忠義《ただよし》は肩を震わせ拳を握りしめる使者を見つめている。
「どうした?全て殿に申し上げよ。」
「は・・・はっ、内匠頭様は田村様お屋敷の庭先にて覚悟の御最期であったと聞き及びました・・・。」
「何っ!庭先だとっ!」
 綱長は使者の言葉に顔を歪めた。
「なんと・・・。」
 用人/井上正信は、田村邸での出来事に絶句してしまう。
「長矩は五万石の大名じゃ。その大名をこともあろうに庭先で切腹させるとは慮外千万!」
 綱長は怒りのあまり、持っていた扇子をへし折ってしまう。
「吉良は・・・吉良の処分は!」
 綱長が相手方の義央の事を訊ねる。
 平伏している使者は体を震わせたまま黙っていた。
「殿がお尋ねしてておるのだ。早う答えぬか。」
 正信は黙ったままの使者へ返答を促す。
「き・・・吉良様は、お場所柄を弁え神妙なる態度にて特にお咎めなしと。これは、上様直々のご裁断ということでございます。」
 浅野家に対して一方的な処分に、綱長たちは呆然となる。
忠義(ただよし)。此度の刃傷沙汰、上様がいかにご立腹とはいえ、喧嘩両成敗は古よりの御大法ではないか。これはいったい、どういうことなのだ!。」
「わかりませぬ。」
「直ちに使いを送り早急に問い質して参れ!」
 綱長は激昂していた。
「殿!その件につきましては暫しお待ちを。」
「何故だ!」
「長矩様の刃傷について我等本家は固より、分家ならびに親戚縁者にも連座の恐れがあるやも知れませぬ。」
「何!」
 綱長をはじめ一同、忠義《ただよし》の言葉でうなだれてしまう。
「ま、まさか。そのようなことが・・・。」
 正信は、忠義(ただよし)の言葉に愕然として膝を落とす。
 ただ綱長は公儀の行った処置に納得がいかなかった。
「正信!まずは、田村右京大夫へ抗議の使者を出せっ!」
 綱長が声を張り上げて正信に命じる。
「殿。赤穂城にも使者を使わさねばなりませぬぞ。」
 忠義《ただよし》が落ち着いた口調で綱長に言う。
「赤穂へ使者じゃと?」
「はい。領地召し上げとなれば赤穂城は明け渡さねばなりませぬ。しかし、公儀の処分に不服とあらば城を枕に討ち死にするということも考えられまする。それだけは、絶対にさせてはなりませぬ。」
「赤穂の筆頭家老は大石とか申したな?」
「いかにも。」
「殿。赤穂への使者には(それがし)が参りまする。」
 正信が覚悟の表情で綱長に訴える。
「わかった。今すぐに発て!」
「はっ!」
 正信は、綱長に一礼してその場から出て行く。
「長矩め、早まったことを・・・。」
 苦痛な表情を浮かべる綱長に対し、忠義(ただよし)は冷静さを取り戻し事件への対処法を練っていた。

                 七

 吉保の江戸上屋敷内の庭先で、吉保と兵衛は赤穂藩の動向について話していた。
 先に歩く吉保を追うように兵衛は半歩下がってついていく。
「まさか即日採決とはの・・・。」
「よほど従一位の冠位を桂昌院様に賜りたかったのでございましょう。」
 吉保は、兵衛の言葉に無言で頷く。
「全て目論見通りという訳にはいかなかったが、当初の目的は達成したか・・・。」
「いえ、達成どころか失敗でしょうな。」
「なんじゃと。」
 兵衛の言葉に驚き吉保は振り返る。
「上様の桂昌院様への想いが、まさかこれ程とは・・・。」
 兵衛は天を仰いだ。
 兵衛の様子を見て、吉保は己の不覚を悟った。綱吉の側近くに居ながら心の内を察することが出来なかったのだ。吉保は力量不足に思わず唇を噛んだ。
「上様の御採決、これからの状況次第で御前に災難が降りかかるやもしれませぬ。」
「災難と?」
「ひとつは赤穂城の引き渡し。これが、そのひとつ。」
「藩が改易になったのだ。当然、城を明け渡さねばならぬではないか。」
「それは吉良も処分されていればの話でございます。」
「藩士共が、上様の御採決に不服を申し立てるということか。」
「いかにも。」
 戦国の世ならば有り得ることかも知れないが、戦のない今の時代に事を起こすような事態が来るわけがない。
 吉保のこうした思いを読み取っているかのように兵衛は立て続けに話す。
「このような事態、想像もつかぬ出来事でございましょう。…しかし、これからは予想出来ぬ事にも対処せねばなりませぬ。」
「予想出来ぬ事とは・・・。」
「例えば松の廊下での刃傷、これからどのように伝えられていくでしょう。」
「どういう意味だ。」
「五万石の大名が小さ刀とはいえ抜刀したのです。それなりの理由があるのでは・・・と世情は考えるでしょう。遺恨、謀略など様々な理由が追加され、まことしやかに語られていくやも知れませぬ。」
「まさか。内匠頭は乱心ぞ。」
「そう素直に考える者は少ないと思われます。しかも、乱心に仕向けたのは我等でございます。」
 吉保が鋭い視線を兵衛に送る。
「此度の御採決は、浅野家だけが一方的に処分され過ぎております。」
 兵衛が言ったことは吉保が綱吉に言ったことでもあった。
「これから先、いったいどのようなことが起こりうるというのだ。」
 兵衛は、一呼吸おいて吉保の問いに答えた。
「事が起きれば人は必ず、どこかにその絵を描いている人間がいると考えまする。誰が得をし誰が損をしたのか。」
 吉保は、まるで第三者のように話している兵衛を睨みつける。
「此度の上様の御沙汰、吉良家ばかりに都合が良過ぎまする。損をする側、得をする側の構図がはっきりし過ぎます。」
「内匠頭め、吉良を討ち果たしさえすれば・・・。」
 吉保が悔しそうに呟いた。
「浅野が吉良を討ち果たしておれば、いかに詮索したところで死人に口なし。時と共に事件の記憶は薄れましょう。誰も刃傷沙汰のことを語らなくなります。」
 吉保は相変わらず黙ったまま視線は遠くを見ていた。
「しかし、此度は詮議もせず上様の私情で採決を行っております。」
 兵衛が黙ったままの吉保を見ると、怒りの感情を抑えられず震えているのがわかった。
「探られたくない腹を探られ、都合のいいように真実を作り変えられてしまうかも知れませぬ。」
「そのようなこと・・・。」
「嘘が真に、真が嘘になる世にござります。御前がなさってきたことではございませぬか?」
 吉保は、握りしめた拳に力を込める。
「返す返すも我等にとって、吉良が生き残られたことが唯一の誤算。」
 吉保の表情が一層険しくなる。
「まずは籠城などという事態だけは、防がねばなりませぬ。」
「急ぎ赤穂へ忍びを使わせ、内情を探らせよ。」
 兵衛は、吉保の命を受けてその場から立ち去って行った。

                八

 江戸城松の廊下での刃傷事件は、江戸庶民を震撼させた。
 多都馬の調達屋を拠点として、長兵衛の配下は情報集めに奔走していた。
 赤穂藩上屋敷に直接出向いて情報を得たいところだが、取りつく島もない状態であることが容易に想像出来た。
 多都馬と長兵衛は店内で、須乃は店先の通りで配下たちの帰りを待っていた。
「旦那!」
 三吉が息も絶え絶えに走ってきた。
 須乃から差し出された水を、三吉は一気に飲み干した。
「どうだ?」
 水を一気に飲み干しても三吉の呼吸の乱れは治まらない。
「大丈夫ですか?」
 須乃が心配そうに三吉の背中をさする。
「へい。あ・・・浅野様は、田村様のお屋敷で即日御切腹。そんでもって赤穂藩は、ご領地お召し上げとの御達しでございやした。」
「何っ!」
 多都馬と長兵衛は、思わず声を荒げた。
 須乃の顔は青冷め、体は震え出していた。
「まだ、あるんで。御舎弟大学様のことでさぁ。」
「大学様は如何相成った!」
「広島の御本家に閉門蟄居って御沙汰で・・・。」
「馬鹿な、間違いではないのか。何の詮議もなく即日切腹など聞いたことがない。」
 多都馬は、三吉の着衣を掴んで大声を出していた。
 店の奥から数馬が心配そうに顔を出す。
「いや、アッシだって最初は驚れーたのなんのって。」
「では、もう長矩様はご生涯を・・・。」
「間違いありやせん!」
 三吉の言葉に多都馬は絶句して立ち尽くしてしまう。
 須乃もあまりの衝撃に膝を落とす。
「三吉!き・・・吉良様は、吉良様はどうなった。」
 長兵衛が、どもりながら吉良家の処分を聞く。
「あぁ・・・吉良様は、お場所柄を弁え刀も抜かず、神妙なる態度っつうことでお咎めなしって御沙汰でございやす・・・。」
 多都馬と長兵衛は、互いに顔を見合わせた。
 幕府には古来より定められた喧嘩両成敗があり、その定めの中で体制を支配している。
 将軍自らそれらを破るとはあまりにも浅野家側に偏りが生じてしまう。
「それから、将軍様から見舞いの言葉まで頂いたって話も耳にしやした。」
「多都馬様。」
「長兵衛。これは、まずいぞ。」
「はい、これでは余りにも・・・。」
「片手落ちだ。浅野家も黙ってはいまい。」
「はい。」
 多都馬は眉間にしわを寄せ、下唇を噛んで考えた。事件の詳細を調べた上での採決なら、不満は残るかも知れないが両家共一応の納まりは付く。
 それ相応の調べも無しに採決が行われたら、罪を負わされた側の不満は必ず爆発する。
― 本家や親戚筋の対応次第じゃあ、城に籠城して戦・・・ということも有り得るかもしれん。―
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