白衣とブラックチョコレート

血まみれ

「えっと、総合内科外来は……」

鷹峯から入院依頼の一報がリーダーピッチへ入ったのは、昼休憩が終わった頃のことだった。

今日は久々に恭平と一緒の勤務であり落ち着かない気分だった雛子は、こうして一時的にでも病棟を離れられている事に少しほっとしていた。

「あ、雨宮さんこっちです」

「鷹峯先生!」

恭平と同じく人混みより頭一つ背の高い鷹峯が、外来患者の隙間からひょこっと顔を出す。

「助かりました。総合内科、来たことがないのでイマイチよく分からなくて……」

手招きされ、雛子はやっと総合内科外来に辿り着く。鷹峯は手に財布を携えており、これから遅めの昼食を取るところのようだ。

「井上さんのお迎えですよね」

鷹峯の言葉に雛子は頷く。彼はポリポリと長い人差し指で頬を掻き、困ったような笑みを浮かべた。

「結構アクの強い人なので気を付けてくださいね。貴女は当たられやすいですから」

「っ!?」

「あとでムンテラに行きますのでリーダーに伝えておいて下さい」

さらりと頬をひと撫でされ、雛子は思わずたじろぐ。鷹峯は何事もなかったかのように、人混みの向こうへと消えていった。








「随分待たせるじゃねぇか!! 俺を待たせるとはどういう了見だコラァ!!」


総合内科外来の処置室内から怒声が響いている。本日酩酊状態で妻に付き添われ受診した井上は、アルコール依存症のコントロール不良で教育目的に入院となった患者だ。

「すみません、お待たせしました。すぐにご案内します」

処置室内にも井上から発せられるアルコール臭が充満している。興奮状態の井上が点滴を引き抜くことのないよう、雛子はさり気なくルートを整える。

「この人また私の見てないところで酔いつぶれてたんです! もう完全に治るまで帰ってこないでよね!」

「うるせぇぞテメェは黙ってろ!!」

「言われなくても私もう帰るから!!」

妻らしき女性はボストンバッグを井上に投げつけると、鼻息荒く処置室を出ていく。

不機嫌を具現化したような形相の井上を刺激しないよう、雛子は慎重に声をかけ病棟へ連れていく事にする。

「……気を付けてね、この人何度か入院歴あるけど、そのたび大暴れで大変みたいだから。その上今日は消化器の先生達が学会で出払ってて、受付で随分待たされてイライラしてるのよ」

「……分かりました」

外来の看護師が小声で耳打ちする。普段は消化器病棟の常連らしいが、本日は主治医不在の上、生憎ベッドの空きがないようだ。

(あとで夏帆から生のレビューを聞いとこ……)

雛子は消化器病棟で働いている一番の親友を思い浮かべる。

「ったくアイツぁ大袈裟なんだよ! この程度で入院なんかさせやがってぇ!」

(体調が悪いから入院するんじゃなくて、教育目的の入院ですって)

つい言ってやりたくなるが、相手は大きな独り言のようなので堪える。鷹峯に対してか妻に対してか分からないが、井上は病棟に着くまで終始ブツブツと文句を垂れていた。


「井上さん、あとで先生がお話に来ますから少しお待ちくださいね」

道すがらただひたすら傾聴していた事が功を奏したのか、病室のベッドに腰を下ろす頃には不機嫌ながらも大分落ち着いた様子だった。

その事に一安心し、検温を終えると雛子は声をかけて一度退室する。



「あっ、雨宮大丈夫だった?」

ステーションに戻ると、リーダーの大沢が切れ長の目を丸くして問いかけた。

「アンタが病棟出てすぐ外来のスタッフから電話があってね、『できれば男性スタッフで』って。言うのが遅いっつーのよ」

「ああ……」

確かに、毎回大暴れとの申し送りがあるくらいなので女性、ましてや雛子のように若く小柄なスタッフには向かない相手だろう。

かと言って、8A病棟に男性スタッフは恭平しかいない。雛子はステーションの端で立ったままパソコンを弾く恭平にちらりと目をやる。

「大変そうだったら今からでも桜井に送る? アイツ今暇そうだし」

暇そう、とはいっても恭平は雛子より受け持ち人数も多く、重症度も高い。

何より、井上を申送る時に話しかけなければいけないことがまだ憂鬱だった。

「い、いえ、大丈夫です」

「そう? なら良いけど」

雛子はあとで鷹峯が病状説明に訪れることを伝え、他の患者のところを回る。

一旦は今日の勤務が終わるまでの我慢だ。いずれ消化器病棟に空きが出れば転棟になるだろう。

雛子がそんな打算をしているうちに、病棟に鷹峯がやってくる。時計を見ると、先程会話を交わしてから一時間も経っていない。


「お待たせしました。面談室使わせて貰います」

休憩もままならないはずだが疲れた様子ひとつ見せず、鷹峯は白衣を翻して面談室に消えていく。

「はい、ご本人呼んできます」

メンタルもフィジカルもタフだな、など余計なことを考えつつ、雛子は井上を呼びに病室へ向かう。


「井上さん、先生が来たのでこちらに……」

大部屋の病室に向かうと、井上のベッドの周りだけしっかりとカーテンが閉められていた。雛子は「失礼します」と声をかけ、カーテンの端を捲る。

「……って、ちょっと井上さんっ!?」

「なっ……急に覗くんじゃねぇっ!!」

雛子の声に驚いて大きな身体を揺らした井上。その手に握られていたのは一升瓶の焼酎だった。

井上は荷物と一緒に持ってきていた酒瓶を早速開け、入院早々飲酒をしていたのである。

「だ、駄目ですよ! お酒を辞めるために入院したんですから! 入院中は飲酒禁止です!」

雛子は一升瓶を取り上げようと思わず手を伸ばす。しかし井上も負けてはいない。

取られまいと抵抗した結果、瓶は病室の床へと叩きつけられ割れた瓶から酒がぶちまけられる。

「小娘がっ! 俺の酒をこんなにしやがってぇ!!」

「っ……!?!?」


井上は激昂し、拾い上げた酒瓶の一部を力任せに振り抜く。それは雛子の左の額にクリーンヒットした。


「ひぃっ……!」

「ひ、雛子ちゃん大丈夫かいっ?」

同室の患者達が顔を青くして雛子の顔を覗いたり、ナースコールで看護師を呼んだりと病室が一気に騒然とする。

「このアマァ!! タダじゃおかねぇからな!? 殺してやる!!!」

「ちょっ……落ち着いてください井上さんっ!!!」


突然の攻撃に視界を白黒とさせていた雛子も、井上の気迫にはっとして立ち上がる。しかし何せ大柄な井上と小柄な雛子では体格差があり、このまま暴れられると勝ち目がない。

(む、無理無理無理っ……! 殺されるっ……! 死んじゃうぅっ……!!)

雛子は恐怖で思わず足が竦みそうになる。


「何してるんですっ!?」


慌ただしく病室に駆け込んできたのは鷹峯だった。床に散らばるガラス片と酒、井上が雛子に掴みかかる姿を見て咄嗟に状況を判断し、二人の間に割って入ると井上をベッドに押さえつける。細身に見えるが、上背があり力は井上より上だ。

「せ、せんせぇ〜……」

「雨宮さん、顔っ……と、とりあえず鎮静かけます! 念の為酸素と抑制帯も準備して!」

希望の光とばかりに顔を上げた雛子に、さすがの鷹峯もぎょっとしたような声を上げる。しかしすぐに平静を取り戻し、あとから応援に駆けつけた何人かの看護師にてきぱきと指示を出していく。

「雨宮っ……!」

「桜井! 早く井上さん押さえてっ!!」

同じく病室に駆けつけた恭平も珍しく目を見開いて雛子の方に走り寄ろうとするが、大沢に叱咤され渋々軌道修正する。

「雨宮! アンタはステーションで待機!」

「は、はいっ!」

雛子も大沢の指示を受け、言われるがままふらつく足取りでステーションに戻る。


(こ、怖かったぁ〜……)

ようやく命の危機を脱し、雛子はようやく煩い鼓動を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。



「ん……?」



顎から滴った滴に、思わずゆっくりと数回目を瞬かせた。

「え、やば。なにこれ……」

よく見れば、白衣の前面は滴った血液で真っ赤に染まっていた。恐る恐るステーション内の鏡を覗くと、まるでお化け屋敷に飾ってある幽霊の人形のように顔面が血塗れになっている。

「いたたっ……」

気付いた瞬間、瓶で殴られた部分が熱く脈打つように痛んだ。雛子は終始「えー」とか「うわー」などと声を上げながら、他人事のように鏡の中の傷口を観察していた。

人間、非日常的な傷や出血を見ると妙に冷静になってしまうものだ。

「あ、やばいやばい」

しかし、ただ見つめているだけで出血が止まるわけでも、ましてや傷口が塞がるわけでもない。

これ以上周囲を汚す前にと雛子は慌てて処置用のガーゼを数枚手に取り、額の傷に押し当てる。

「ねむ……」

こうしてただ椅子に座っていると、何だかぼんやりとしてきてしまう。昼下がりだからか、どんどん眠くなる。

傷は出血量と比較するとそれほど痛いとも思わない。そんなことよりもまた周りに迷惑をかけていることの方が精神的に堪える。

「……ダメダメ」

雛子は僅かに首を振り、片手で記録の入力を始めた。










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