白衣とブラックチョコレート

甘い教育係

「ひなっち、何怒ってんの……?」

ステーションに入るなり、珍しく怒り顔の雛子に恭平は困惑気味にそう尋ねた。

「べ、別に怒ってなんかいません!! ……ただ、火野崎先生が……」

その名前を口にした瞬間、恭平が真面目な顔をして雛子の肩に手を置く。

「あいつに、何かされた?」

その真剣な眼差しに、思わず胸が跳ねる。先程までの苛立ちなど吹き飛び、雛子はドギマギと早口で説明する。

「あ、ちょ、ちょっと身体を触られたくらいです。別に」

「身体ってどこ」

恭平から表情が消え、雛子の言葉を遮った。

「えっと……今日はお尻とか太腿……」

「『今日は?』」

「前は胸も触られましたし耳食べられました。あ、あとは部屋に来ないか? ってお誘いを受けました……」

「……」

無言のまま恭平は雛子の腕を掴む。

「ちょ、桜井さんっ?」

「院内のハラスメント委員会に訴えよう」

そう言ってステーションから連れ出そうとする恭平を、全身でブレーキをかけながら止める。

「行きませんから! ちょっと落ち着いてください!」

何故恭平がここまで怒るのかと、雛子を暴れだしそうな彼を宥めながら考える。

(もしかして、私のために怒ってくれてる、のかな……?)

そんな自意識過剰な考えに至って、ニヤけそうになった顔に慌てて力を込めた。

「……ったくあの二人ステーションでイチャついちゃって」

「……まったくです。それにしても、火野崎先生がヤバいことは間違いないですよね。私もボディタッチされましたもん」

「あ、私も」

恭平と雛子の一連のやり取りに飽きれつつ、他のスタッフも次々と被害を訴え溜息をついた。

「あら、私は一度もないけど」

突如として響いた石川の言葉に、周囲は水を打ったように静まり返る。

「……さて、ラウンド行ってきまーす」

ステーションに何人かいたスタッフは皆蜘蛛の子を散らすように出て行き、恭平もしれっとパソコンに向かって仕事をしている風を装う。

タイミングを見失った雛子だけが一人、石川の前で立ち竦む。

石川は鉄仮面のまま、眼鏡の奥で眼光を鋭くする。

「全員がされていないということは、あなたに隙があるということよ。もっと気を張って、毅然とした態度でいなきゃ駄目じゃない。だいたいね────……」

「うぅ……す、すみません……」

何だか変なスイッチを入れてしまったようだ。そう思いながら甘んじて説教を受けていると、突如としてバタバタと慌ただしい足音がステーションに近付いてくる。石川も驚いて入口の方に目をやる。

助かった。そう思っていると、五月蝿い足音を更に上回る程の声量で相手の怒鳴り声が聞こえてくる。

それは今しがた話題に上がったばかりの、火野崎だった。

「ちょっとさぁ、8A(ここ)入院とりあえず五人、いけるよね!?」

「はい……? 五人とは、それぞれどういった状態の患者なんです?」

火野崎の言葉足らずな説明に、石川は状況を確認する。火野崎はそれにイラついたようにさらに大声で捲し立てる。

「今救急から電話があったの! すぐそこの大通りでバスの横転事故があって、怪我人大勢いるって言うからさぁ、断れないでしょ!? 分かったら早く準備しといてね!」

「きゃっ!?」

すれ違いざま、よろしくね、と言いながら雛子の尻を撫で上げ火野崎は病棟を後にする。

「……んの野郎っ」

火野崎が去っていった方向を睨み付けながら、恭平は殺意を振り撒く。あまり他人には執着しないタイプの彼が、ここまで嫌悪感を露わにするのは珍しい。

自分のために怒ってくれていることを少しだけむず痒く思いつつ、今はそれどころではないと雛子は石川に向き直る。

「ど、どうしましょう? あの様子だとERにはかなりの人数が運ばれてくるのでは……」

石川は鉄仮面を僅かに曇らせながらも、既にベッドコントロール表を見てこの後の采配に頭を働かせていた。

「仕方ないわね……とにかくどんな人が来ても良いように、出来るだけ万全に準備しましょう」

「は、はいっ!」

「……ったくあのボンクラが」

雛子と恭平が部屋の準備に取り掛かり、石川はすぐさま他のスタッフにも指示を出していく。







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