ここは確かに、空だった。
第三章
その日は、朝から横殴りの雨が降っていた。芳江のベッドサイドから外を眺めても、打ち付ける雨に外の景色はぼやけて輪郭を失っている。

(今日は屋上、行けないな……)

あの日からも、あかりは屋上で悟と会っていた。むしろ、会わなければ後悔するような気がして、会わずにはいられなかった。見えない窓の外を睨みつけながら、あかりは思案する。

それは一種の強迫観念のようなものへと、次第に変わっていた。

「なぁんか、眠いねえ。こう朝からずーっと雨が降っているとさ」

芳江が大きなあくびをして布団をかけ直す。

「寝るの、おばあちゃん?」

芳江がすっかり居眠りする体勢になったのを見て、あかりは窓から芳江に視線を移した。

「んん? 最近、眠いったらありゃあしないんだよ。ちょいと静かにしといておくれよ」

手であかりを追い払うような仕草をした後、芳江は目元まで布団をかぶった。スマホを確認すると、時刻はまだ昼下がりだと言うのに室内はほんのりと薄暗い。

それきり喋らなくなった芳江にため息を吐き、あかりはそっと病室を後にした。











病室の外も、今日は普段より静かに感じられる。

日曜日は病棟が落ち着いている代わりに面会者が増えるものだが、本日は雨のせいかそれも少ない。悟の面会へ行こうか、そんな考えに至る。今まで屋上で会うことを繰り返してきたが、病室へ出向いたことはなかった。

ステーションに西山の姿を見かけ、あかりは声をかけた。

「あの、すみません」

あかりの呼びかけに何人かの看護師がパソコンから顔を上げたが、西山が椅子から腰を上げたことで、その他大勢の顔は再びパソコンへと向けられた。

「どうしたの? 芳江さん何かあった?」

カウンター越しに尋ねられ、あかりは首を横に振る。

「いえ、祖母は居眠りしています。ただちょっと……知りあいが入院しているんですけど、病棟が分からなくて……。『黒木悟』っていう人なんですけど」

「何の御病気? ちょっと待ってね、今見てみる」

そう言うと、西山は手元に置いてあったパソコンから他病棟のマップ画面を開く。どうやら全ての病棟マップから探しているようだ。

「循環器病棟かと思ったけど……違うみたいね」

しかしなかなか悟の名前は見つからない。そうこうしているうちに、先程ステーションに入ってきた竹下がしびれを切らしたようにやってきた。

「ちょっとあなた達、さっきから何やってるの? 西山、カルテは一応個人情報なんだからね、スタッフ以外の前で簡単に開かない! ……で、どうしたの?」

一喝され、二人揃ってやや首をすくめたが、勤務経験の長い竹下ならば分かるのではないかと思い至る。あかりはふと、もう一人の人物の名を思い出した。

「それじゃあ、『佐々山愛子さん』っていう看護師さんがどこで働いているか知ってますか? 『今日は佐々山さんが担当だから怒られる』って、悟が言っていたんです」

「は─────……?」

一瞬、ぽかんと間抜けな表情を見せてそう一言声を上げたのは竹下だった。その直後には、普段は色づいている頬を真っ白にして目を見開いた。そんな異様な竹下の様子に、西山とあかりは状況が飲み込めずに困惑した。

「あの……た、竹下さん?」

西山がカウンターの向こうで竹下の肩に触れる。

「何が……どういう、ことなのっ? 詳しく教えてちょうだいっ!」

西山の手を振り払うかのように、竹下はカウンターから身を乗り出し、あかりの服を掴んだ。竹下の剣幕に毛押されながらも、あかりは事の成り行きを話した。



─────。



「屋上ね…? 屋上にいるのね…っ?」

あかりの話を聞き終わると、竹下は顔面蒼白のまま独り言のようにそう呟いた。そうかと思えば、無言でステーションから出てきたかと思うと、つかつかと早足にあかりの横を通り過ぎた。

そのまま次第に速さを増す竹下を二人は茫然と見つめていたが、はっとして顔を見合わせた。

「竹下さん、まさか屋上に行くつもりなのかしら……? でもこんな雨……」

「私、追いかけてきます!」

状況がいまいち掴めず困惑する西山をよそに、あかりは竹下が向かったはずである屋上へ駆け出した。








雨足は強さを増していた。竹下は屋上へ続く鉄扉を乱暴に開ける。やや遅れてあかりが続いた。

そこには普段の穏やかな空気などなく薄暗い雲が立ち込め、無防備なあかり達は激しい雨に打たれた。


「悟……」


先に彼を呼んだのは竹下だった。

そして何より異質なのは、豪雨の中で身じろぎ一つせずにこちらを見つめる青年の姿。銃口のような漆黒の瞳は、真っ直ぐに竹下を射抜いていた。

その瞳は、驚きを隠せないというように大きく見開かれていた。

「愛子……ちゃん……?」

悟が一歩、竹下に近寄った。

「悟……っ!」

その瞬間、竹下は弾かれたように悟に走り寄った。竹下は悟の目の前で足を止める。

そして恐る恐る手を伸ばす。雨に濡れた冷たさか、それとも緊張からか、恐らくどちらもであろう。

震える指先が、悟のTシャツの胸元に触れた。その時の竹下の表情は、後ろから見ていたあかりには分からなかった。

「愛子ちゃんっ……」

しかし、その瞬間竹下を抱き寄せた悟の表情が、苦しそうに歪められていたのをあかりは見逃さなかった。

「なんで……なんで、いるのっ……何なのよっ……」

悟の胸に顔をうずめながら、竹下は絞り出すように問いかけた。

「なんで……なんで私のこと置いて、一人で逝っちゃったのよっ…!!」



あかりは一瞬、全ての音が聞こえなくなり、目の前が真っ白になった────。



雨の冷たさも何もかも分からなくなり、身体がぐらりと揺れたところでなんとか留まった。

「ずっと……ずっと、後ろめたかったんだからっ…貴方とのこと、誰にも言えないし……でもっ……でも、死んじゃってからもずっと……好き、でっ……」

「ごめん……」

悟は小さく謝った。

「なんで一人で逝っちゃったのよ……貴方看取らせてもくれなかったっ……」

「ごめん……」

もう一度────。

「まだ……貴方が、くれた指輪……大切にしてるのよっ……なのに……」

「ごめん……」

もう一度────。

「貴方、最期に身に着けていなかった……」

「ごめんな……」

竹下は悟から身を離すと、両手で顔を覆った。その肩が小刻みに震え、普段より小さく見えた。

「なんでだろうって……捨てちゃったのかな、私のこと嫌いになったのかしらって……すごく辛かったのに……」

「……」

「私はあれからもう四十年も年を取ってしまった……結婚もして、孫までいるのに……それなのに、悟は何も変わらない……病弱そうな見た目も、そのくたびれたTシャツも……優しいところも、何もかもっ……」

雨の音に掻き消されそうな声で、それでも語尾を強く竹下は言い放った。その言葉を一言も喋らずに聞いていた悟は、驚愕の表情の後に切なそうな、しかし心底愛おしそうな微笑を浮かべた。

あかりは、濡れて冷え切ってしまった指先が蒼白になるまで強く握りしめ、ただ見ていることしかできなかった。

しばらくの沈黙ののち。

「……愛子ちゃんは変わって当たり前だろ。……生きているんだから」

悟は、手で顔を覆ったままの竹下の華奢な肩を再び抱きしめた。ふわりと、それでいて決して離さないというように、優しく力を込めていた。

「ありがとうな、指輪を持っていてくれて」

嬉しかった。それは、悟の素直な感想だった。

「俺はあの日、この場所で指輪を落とした……必死で探しているうちに、俺は……死んだんだろうな」

よく覚えていないんだ、と悟は一言詫びた。

「指輪が気がかりで、俺は気付けば四十年もこの場所に留まっていたんだ。でも……」

そこで初めて、竹下を抱きしめる体勢はそのままに、悟の視線がゆっくりとあかりを捉えた。悟の銃口の瞳とあかりの見開かれた瞳が衝突する。

「指輪も、新しい持ち主も……俺は見つけたんだ」

そう聞こえた瞬間、あかりは呪縛から解かれたように踵を返した。

無我夢中で鉄扉を開け、転がるように階段を駆け降りた。エレベーターのボタンを連打すると同時に、溢れ出てくる涙を拭い、混乱する頭を振りみだした。

やがて到着したエレベーターに飛び込むと、あかりはしゃがみ込んだ。『閉』のボタンを押してから一階のボタンを押す。

しゃがみ込み、壁に寄りかかったまま、あかりは先程の光景が走馬灯のように流れていくのを止めることができなかった。

そして、気付いてしまった真実。

「この……指輪だったんだ……」

あかりは暗い瞳のまま、両手で胸元を覆った。そこに触れる無機質な感覚。それはあかりが、亡くなる直前の母から譲り受けたものだった。


『これはね、お空から天使が落としたのをママが拾ったのよ』


指輪は、四十年前に悟が落とし、あかりの母親が拾ったもの。そして母が亡くなる前に、あかりに託したもの。



悟は、四十年もの昔、既に亡くなっていた。



「悟の好きな人、竹下さんだったんだ……」

何に対して自分はこんなに傷ついているのか、もう分からなかった。怒り、不条理、困惑、不安、絶望……様々な感情が交錯してあかりの泣きたい気持ちを加速させた。

頬を伝う涙を拭うことすら億劫になり、まるで傷口がむき出しにされたみたいに痛む心もどうでも良くなった。

やがて聞き飽きたベルの音とともに、口を開けた孤立空間から外界へ放り出される。あかりはふらりと立ち上がり、無人のロビーをおぼつかない足取りで進んだ。

しばらく歩いたところで不意に誰かとぶつかり、あかりはよろけて壁に手を突いた。


「ーーーーちゃんと前見て歩きなさいよ」


そう言った女性の言葉は、鋭かったが冷たくはなかった気がした。

それきり再び静けさを取り戻したロビーを、あかりはまた歩きだす。



外は相変わらず横殴りの雨。やっと心置きなく泣けると思うと気が抜けた。








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