あなたの隣を独り占めしたい(続編まで完結)

心の湿布

(めちゃくちゃ惨めなんですけど)

 驚くほど涙が溢れてしまったので、すぐにデスクに戻れそうもなく、給湯室の冷凍庫に保冷剤はなかったかと弄ってみた。
 その時、背後にどきりとする声が響いた。

「おつかれ」
「っ、圭吾?」

 この期に及んでもまだ半分期待しながら振り返る自分がいて、本当に呆れる。でも、そこに立っていたのは上司である課長の佐伯さんだった。

「すみません。人違いでした。」
(佐伯さん今日外回りじゃなかった?)

 恥ずかしさで頭がパンクしそうだ。恥ずかしい。
 軽く頭を振りながらハンカチで包んだ保冷剤を目に当てていると、黙ってマグカップを洗い始めた佐伯さんがこちらを見ないままで言う。

「目、どっかぶつけたの?」
「あ、いえ。ちょっとうたた寝したら目が浮腫んじゃって」
(苦しい言い訳かな)

 なるべく顔を背けながら答えると、くすりと笑う声が聞こえる。

「どんな寝方したらそうなるの」
「あは、本当ですね」
「ちょっと見せて」

 佐伯さんは私の体を自分の方へ向かせ、確認するように顔を覗き込んだ。

(……っ、体が動かない!)

 心の底を見透かすような瞳で真っ直ぐに見つめられ、私はその場で棒立ちになる。

「……」
「……」

 ほんの数秒の間に落ちる沈黙に耐えきれずに視線を逸らすと、佐伯さんは手を離して安心したように息を吐いた。

「少し冷やせば大丈夫そうだな」
「あ、ありがとうございます」

 彼はうんと頷くと、洗ったマグに新しいコーヒーを注ぎ足した。
 二人きりの給湯室に、水の流れる音だけが響いた。

「あの、それじゃあ……オフィスに戻ってますね」
「うん。お大事に」

 私はお辞儀をすると、保冷剤を手にそそくさと給湯室を出た。

(あー…佐伯さんって本当に心臓に悪い人だなあ)

 オフィスに戻っても、まだ給湯室でのドキドキが残っている。
 触れられた頬が熱くて、目に当てるつもりだった保冷剤を思わず頬に当てた。

(キスでもされちゃうのかと思っちゃったよ)

 給湯室で一緒になったくらいでこんなにも身構えてしまうのは、あの人が社内でも有名なプレイボーイだからだ。女性社員の間では”ワンナイトの帝王”なんていうあだ名までついているくらいだ。

 でも確かにそう噂されても不思議がないほど、彼は黙っているだけでフェロモンがだだ漏れているような雰囲気がある。色素の薄い猫っ毛に埋もれたアンニュイな瞳に見つめられると、3秒で落ちると言われているのだ。

(さっき3秒あったかな? 今のところ恋には落ちてないけど)

 そんなことを真剣に考えてしまう自分がちょっとおかしい。

(声をかけてもらえて、救われたのかも)

 とはいえ佐伯さんが”次の恋の相手”っていうのはない。
 彼は簡単に言うと営業部きってのフェロモン系モテ男だ。
 ワンナイトの帝王というのが本当かどうかはわからないけれど、社内の美人と呼ばれる人は彼に一夜抱かれるのを目的に近づくらしい。
 私は特に美人でもないので、そんな目的を持つはずもなく。ただただ、生きる世界が違う人だなぁという感想を抱くばかりだ。

(辛い目にあうと分かっている人には、あえて近づかないよ)

 男性にも高嶺の花っていうのはあって、佐伯さんは遠くから見ているのがちょうどいい人なのだ。だからさっき急接近された時は本当に驚いた。
 それでも彼と少し会話できたおかげか、張り裂けそうな胸の痛みが少し和らいでいた。傷の上に薄いガーゼを当ててもらったような感覚だ。
 それが佐伯さんの不思議な癒し能力だとは、この時はまだ気づかなかった。
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