あなたの隣を独り占めしたい(続編まで完結)

変化と戸惑い

 あれから夜のうちに佐伯さんに部屋まで送ってもらい、その後はリセットするように自分のベッドで眠り、早朝にシャワーを浴びていつも通り身支度をした。

(普通、こういうのって遊ばれたとか思う人も多いんだろうな)

 実際、自分の部屋に戻った時その考えはよぎったけれど、体に残る彼の温もりに癒されている実感の方が大きかった。綺麗に洗ってくれたブラウスとカーディガンを見ても、佐伯さんに悪意など沸くはずもなかった。

(これが女性慣れしている人のテクニックなのかな)
「よし……昨夜のことは夢だったと思おう」

 頬を軽く叩くと、私はうーんとひとつ大きな伸びをした。
 そして久しぶりに髪をしっかり結い上げ、お化粧もしっかりめで出社する。
 
(ああ、なんだかすごく心地いい)

 見慣れた近所の公園が、やけにキラキラと光を反射しているように見える。
 昨日も同じ風景を見ていたはずなのに。
 まるきり違う世界にいるみたいだ。
 佐伯さんは実は、魔法使いなのかもしれない。

 そんなことを考えている間に会社に到着した。
 いつも通りオフィスに向かっていると、偶然廊下で佐伯さんとすれ違う。
 どきっとして顔を見ると、彼も私に気づいて表情はそのままに「おはよう」と言った。

「おはようございます」

 ペコリと頭を下げて通り過ぎると、コロンの香りがふわっと鼻腔をくすぐる。
 不意に昨夜のことを思い出すけれど、圭吾を思うような胸の痛みじゃない。
 全身を覆う安心感は昨日のままだ。

(こんな感じなら、仕事にも普通に戻れそう)

 とりあえずほっとして席に着くと、雅美が驚いた様子で駆け寄ってきた。

「ねえ、栞。昨日何かあった?」
「えっ、どうして?」

 どきりとして彼女を見上げる。

「別人みたいに生き生きしてるよ」
「生き生き?」

 思ってもいない言葉をかけられ、かなり驚く。

「髪型のせいじゃない? 今日はアップにしたから」
「ううん、肌の艶が違う。なんていうか……表情も充実してるっていうか」

 女性の勘はすごい。
 一晩限り女としての悦びに浸ったことが、外からもこんな形でわかってしまうなんて。
 それでも昨夜のことは口にできるはずもなく……私は気のせいだよと適当に笑って誤魔化した。

「気のせいにしては変化しすぎだと思うけどなぁ」

 雅美は納得できない様子だったけれど、私が元気になってよかったと最後には笑顔を見せてくれた。

(……ちょっと気を張ってメイクしすぎたかな)

 ポーチから手鏡を出してそっと覗くと、確かに昨日までの自分とは少し雰囲気の違う自分が映っていた。
 確かに血色もよく、肌にハリもある。

(佐伯さんは女性を芯から喜ばせるが天才なのかも)

 感心しつつ頬を緩ませ、私は午前の仕事を順調に終えた。

***

 お昼は雅美と久しぶりに社食でランチを取った。
 朝食は食パン程度だったけれど、昼はお腹が空いてきて、普通に親子丼を食べられている。

「んー…お出汁が効いて美味しい」
(食事が美味しく食べられるって幸せだなぁ)

 しみじみと親子丼を口に入れていると、雅美がくすりと笑う。

「本当にどうしちゃったのよー、こんなに嬉しそうに食事する栞ってすごい久しぶりなんだけど」
「あ、そうだよね。ん……なんかちょっとだけ吹っ切れた感じなの」
「へえ。誰かいい人でもできた?」
「っ、だ、だから。そういうんじゃないんだってば」
「そう? でも栞が戻ってくれてよかった。最近坂田さんもお昼一緒じゃないからさ、私寂しかったんだよねー」
「そうなの?」

 どうやら坂田さんは社内に気になる人ができたようで、最近はその人にお弁当を届けると言ってお昼は別行動らしいのだ。

(坂田さんに想われるなんて、どこの幸せものだろう)

 彼女は男性社員に抜群の人気を誇っていて、清楚な黒髪とあまり語らない物静かな印象がミステリアスな美女なのだ。
 これまで私たちと一緒にお昼を食べていたこと自体がちょっと不思議だと思うくらい近寄り難いオーラを放っている。

「あー、世間は恋で溢れてるなぁ。私にも春が来てほしい」

 雅美が大袈裟なくらいため息をつき、ぺろりと平らげたトンカツ定食を片付ける。
 そのあっけらかんとした口調と態度に私は頬を緩めた。
 普通に生活できるというだけでどれだけ幸せなことか、それが身に染みて理解できた。
 こういう感覚を身につけられただけでも、大きな失恋をした意味があったのかもしれない。
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