「そうだ、これも言っておかねばなるまいな。ベル」

 言うなり、ギラリとルシフェルの目が険しくなる。
 厳しさを増す表情に、ベルはただごとではないと息を潜めた。

「なんでしょう?」

「人の国から、使者が来るそうだ」

「まぁ、人の国から使者が?」

 思いもしなかった報告に、ベルの理解が追いつかない。
 持っていた虫カゴをギュッと胸元へ押し当て、彼女は目を丸くした。

「勇者一行以外で人が来るのは初めてのことだから、魔王城ではみな、右往左往している」

 当然、そうなるだろう。
 人の国と交流している魔族は、ほんのひと握り。どう扱っていいものやらと、上を下への大騒ぎになるのは明白だ。

「そうでしょうね。でも、どういった目的でいらっしゃるのでしょうか?」

「どういう目的で来るのかは、まだ明かされていないが……もしかしたら、勇者を取り戻しに来るつもりなのかもしれないな」

「え……?」

「勇者は仲間を逃すため、時間稼ぎをするために単身残ったらしい。いつか迎えに来る。そう言って、仲間達は勇者を置いていったそうだ」

 ぽとり。
 ベルの手から、虫カゴが滑り落ちる。
 肩にかけていたそれは、彼女の腰のあたりでプランプランとゆれた。

「で、でも、勇者は行方不明で……」

「それがな。ここだけの話、アスモがおまえの境遇を哀れに思って再調査をしたところ、勇者生存の可能性が出てきた」

「は……? お姉様が……?」

 余計なことを……。
 ベルは言葉を飲み込んだ。

 怒りで声が震える。
 なにが、哀れに思って、だ。

(諸悪の根源はお姉様、あなたでしょうに!)

 黙って耐えるベルを、感激しているとでも思ったのだろう。
 宥めるように背を撫でるルシフェルに、ベルは「ちっがぁぁぁう!」と怒鳴りたくなった。

 でも、しない。

(ケイトの居場所を、教えることになってしまうもの)

 アスモは、これと決めたら手に入れるたちだ。

 ベルのため。
 そんな殊勝なことを言っていても、勇者のことを諦めきれていないだけかもしれない。

(いえ……これも言い訳に過ぎないわね)

 ベルは、アスモよりも迎えに来るかもしれない仲間の方が怖いと思った。
 彼女は手を上げて、口元を覆う。

 不安に似た、奇妙な気持ちが胸に渦巻いていた。

 どうして、こんな気持ちになるのだろう。
 ケイトにとっては何よりの朗報であるはずなのに、喜んであげられないのは、なぜ?

「ベル? 大丈夫か?」

 ルシフェルの声に、引き戻される。
 顔を上げた彼女は、まるで迷子のように不安そうだった。

「ベル⁉︎」

「なんですか、お兄様。珍しい食べ物でも、見つけました?」

 ギョッとしているルシフェルに気づいて、ベルは歪にヘラリと笑う。
 らしくもなく取り乱している彼を見るのは、牢に放り込まれて以来、二度目だ。

「あぁ。そうですわ、お兄様。人の国の野菜は動かないと聞きます。ですので、転移魔法陣の周囲で野菜を栽培するのは、控えるべきかと。使者様を怖がらせるのは、お父様も本意ではないでしょう」

「ふむ。それもそうだな。父上からは丁重にもてなせと厳命されている。良いアドバイスをありがとう、ベル」

「いいえ、どういたしまして。お兄様もお忙しいようですし、今日の案内はこのくらいにしておきましょうか」

「ああ、そうだな」

 ベルに促され、ルシフェルは鷹揚に頷く。
 美しい風景を見納めようと振り返ると、凪いでいた湖面が風に煽られて波打つのが見えた。

「うまく、いけば良いのだが」

 なんで自分が、こんなことをしなければならないのか。
 ベルには聞こえない微かな声でつぶやかれた言葉には、そんな気持ちがにじんでいるようだった。