探偵日記

第9話『 戻らざる過去 』3、忸怩たる過去

 依頼者の目が潤んでいる。
 ビューパネルに映し出された娘の姿…… 屈託の無い、あどけない笑顔。

 面談をした場所と、同じ喫茶店で報告書を渡した葉山。
 テープはDVDにダビングし、提出用として別に制作してある。 確認の意味もあり、マスターテープであるビデオカメラのミニビデオテープの再生を、カメラ本体のビューパネルで行っているのである。

 依頼者の女性は言った。
「 今、奥さんが『 綾香 』と呼びましたよね? 私が付けた名前です。 大きくなりましたね…… 」
 葉山が、コーヒーカップを片手に言った。
「 報告書にもありますが、弟さんの名前は、翔君です。 幼稚園の年長さんだそうです 」
 無言で頷く、彼女。 ハンカチを出し、目頭を押さえた。
 葉山は、カップをソーサーの上に置くと、言った。
「 ビデオをご覧になってお分かりになるかと思いますが、家は、南に面した庭があり、道路からも見る事が出来ます。 でも… 行かれない方が賢明かと 」
 1回行けば、情が湧く。 それが2回・3回となり、やがて娘への接触という行動になろう……
 依頼者の女性には、葉山が言わんとしている事は、理解出来たらしい。 じっとビューパネルを見つめながら、無言のまま頷いた。

 しばらくしてから、彼女は言った。
「 これで私も… 踏ん切りがつきました。 実は、お付き合いをさせて頂いている方がおりまして…… 先日、プロポーズを受けました 」
 葉山は、煙草に火を付けると、笑顔で答えた。
「 それは良かったじゃないですか…! おめでとうございます 」
 少し笑い、彼女は俯くと言った。
「 過去の事は、彼にも話しました。 今回の映像を見る事が出来、心の整理がついたら一緒になってくれ、と言われまして…… 」
 プロポーズをした男性は、相手の心理を踏まえた、人道的判断が出来る紳士的な人なのだろう。 懐かしい我が子を見た途端、会いたくなる心境に、人は陥るものだ。 その自我を凌駕し、ある意味、過去と決別出来る理性が、あるかないか……
 再婚する場合、過去は関係ない。 過去に囚われず、共に未来を謳歌していけるかどうか、なのである。 プロポーズした男性は、その点をよく審査していると思える。 また、彼女の事を、真剣に想っている証拠でもあろう。
 葉山は言った。
「 良い方に、巡り会いましたね。 ビデオの男性の方も、家庭的な方のように見受けましたが… 」

 …失言だ。 未来を見据えかけた彼女に、過去を語らせるような発言を…!
 葉山は、途中まで言ったが、言葉を呑んだ。

 窓から差し込む秋の陽に、カップから立ち上る一筋の湯気が映えている……
 静止画にした娘の顔を見つめている彼女。 忸怩たる想いに、心満たしているかのようである……

 やがて、彼女は、静かに言った。
「 薬物の依存から、完全に立ち直るには… 長い年月が掛かりました。 全ては、私のせいなんです…… 」
 初めて明かされる、依頼者の過去。
 どのくらいの薬物障害があったのかは定かではないが、離婚調停の際、親権が付与されなかった理由は、薬物依存にあったらしい。

 過去の余殃に苛まされていた依頼者……

 現代社会の病理も、各メディアで取り上げられて久しいが、今は、理性あるこの彼女も、当時は一時の快楽を求め、つい、底なし沼に足を踏み入れてしまった苦い経験があるのだろう。 その過ちを清算するに当たり、家庭をも手放す事になってしまった訳だ。

 彼女はビューパネルを閉じ、葉山に言った。
「 綾香の事は忘れます。 大人になって、全てを知り… 私を訪ねて来た時には、喜んで逢いますが 」
 葉山は頷き、ビデオカメラをしまった。
 1枚のDVDを取り出し、彼女の前に差し出しながら言った。
「 このビデオテープのダビングです。 ご覧にならなくとも、保管しておいて下さい 」
 彼女はDVDを、葉山に差し返しながら答えた。
「 有難うございました。 先程、カメラで拝見させて頂きましたから、もう充分です。 綾香は、私の記憶の中だけに留めておきます 」
 小さく笑った笑顔に、彼女の未来を確信した葉山。
 煙草の火を、灰皿で消しながら言った。

「 お幸せに…… 」

 葉山の仕事は、終わった。

                 〔 戻ら去る過去 / 完 〕
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