仮面舞踏会を騒がせる謎の令嬢の正体は、伯爵家に勤める地味でさえない家庭教師です
12、あやまち
 震える手を握られ、一段一段ゆっくりと降りる。反対の手で手すりも掴んでいたが、鼓動は早いままで先ほどの恐怖がまだ収まらない。

 一階の解放された談話スペースに先客は誰もいなかった。ホールに上がる者の姿も、帰る者の姿もここで確認できる。支配人室も一階なので何かあれば駆け込むことができる場所だ。

 こちらからは周囲の動向がよく見えるが、談話用のソファの周囲には衝立や観葉植物が置かれており、目隠し代わりにもなっている。

 そこでようやく、リコリスはほっと息を吐いた。

 大丈夫ですかとオーランドに問われ、幾分冷静になった声で「はい」と返事を返す。

「犯人に心当たりはありますか?」
「……わかりません。振り返ったらもういませんでしたし……。色々な方が出入りしていますから、特定するのは難しいかと思いますわ」

 仮面をつけてホールに紛れ込んでしまえばすぐに身を隠すことができてしまう。

「では、貴女を快く思っていない方に心当たりは?」
「それこそたくさんいらっしゃるでしょうね。わたしの存在を面白くないと思っていらっしゃる女性客や、袖にした殿方がプライドを傷つけられたと怒っていらっしゃる方も……もしかしたらいらっしゃるのかもしれませんわ」

 自分で口にしていて怖くなった。

 ――バイオレットは目立ち過ぎた。

 謎のレディの正体は誰なんだと噂されるくらいがちょうど良かったのに、噂が噂を呼び、バイオレットの乗る馬車を追跡しようとする輩や、偽物まで現れたりした。そのうち、本気で正体を暴こうとしてくる者も現れるかもしれない。

 今回は未遂で済んだけれど、もしかしたら大怪我をしていたかも……。

 血の気が引いたリコリスの手をオーランドが優しく握った。

「バイオレット、貴女と外で会うことはできませんか? 夜のダンスホールではなく、もっと健全な……、ごく普通のデートを申し込ませていただきたい」

 真っ当な提案だった。
 誰が相手だったか知りませんでしたと言い逃れができるような仮面舞踏会ではなく、リコリスが望んでいるような、真面目で、誠実な交際。

 これがオーランドでなかったら、きっとリコリスの心もぐらついたはずだった。

「……それはできません」
「あなたの事情には最大限配慮します。人目につかない場所が良いと言うなら人払いもします。どのような身分であっても驚いたりしない。約束します」

 オーランドは真剣だった。
 それでもリコリスは頷くことができない。

「できません」
「なぜですか?」
「わたしには、仮面を外せない理由があるからです」

 エトランジェに集う客は皆、仮面をつけている。ここでは身分も容姿も関係ない。気づいていても触れないのがルール。

 オーランドも分かっているのだろう。だから、たとえリコリスが既婚者だったとしても、高貴な令嬢だったとしても驚かないという意味で言ってくれているのだから。

「……その仮面の下には、何か傷でも?」
「もしそうだとしたら? 顔に傷のある女や、醜女だったとしたら、あなたはがっかりするの?」
「しません」

 オーランドは即答したが、リコリスは首を振った。

「いいえ。あなたはきっと去っていく。言ったでしょう? あなたの良くない噂はたくさん聞いているって。いくら女性関係を整理したからと言って、浮名を流し続けてきたあなたのことを簡単に信じられるわけがありません」

「…………。俺は昔、一人の家庭教師に裏切られました」

 唐突にオーランドが話を変える。

 家庭教師、という単語にドキリとした。

 リコリスのことじゃない。わかっていても冷や汗が出そうになる。
 オーランドはリコリスから視線を逸らすと、苦い笑みを浮かべて口を開いた。


 



『お願いです、オーランド様。最後に一度だけ、わたしに夢を見させてください』

 愛しているんです、と涙を流したのは、ピアノが上手だった中流階級の娘だった。

 オーランドより四つ年上の娘は、知人を頼って仕事を探していると言い、オーランドは家庭教師として彼女を雇った。伯爵家嫡男として一般教養を一通り身につけていたオーランドにとって、ピアノは道楽半分――仕事を探していると言うから慈善のつもりで雇ったものの、授業は意外と面白かった。

 二年ほどスペンサー家に出入りし、彼女が十八になった頃に嫁ぎ先が決まった。

 相手はひとまわりほど年が離れているらしいが、地方に領地を持つ資産家で、人柄も良いと評判の人物だった。スペンサー家でも皆が彼女を祝福した。もちろんオーランドも。

 しかし、別れの挨拶にきた彼女は、オーランドの胸にすがり付くとその背中を震わせたのだ。結婚などしたくない、と。

『――そんなことを言うものではないでしょう。とても良い方だと、父から聞いています』
『ええ……わかっているわ。でも、わたしは……』

 オーランドの頬に触れた彼女は、そっと顔を引き寄せると唇を重ねる。十四歳のオーランドは驚いて固まってしまった。

『……何を……』
『好きなの』

 濡れた瞳で彼女はオーランドを見つめる。

『あなたを愛しているんです……。お願いです、オーランド様。最後に一度だけ、わたしに夢を見させてください』

 抱いてください、とオーランドにしがみつく。オーランドは困惑したまま彼女の背中に手を添えた。ゆるく首を振って拒絶する。

『あなたは……他の方の妻になる女性です。その方を裏切ってはいけない』
『……オーランド、様……』

 ぎゅう、とオーランドの胸元のシャツを握りしめ、彼女は声を絞り出した。

『……馬鹿なこと言っていると、軽蔑した……?』
『そんなこと……』
『だったら、お願い……!』

 たった一度でいい。そうしたら全てを忘れるから。
 泣きながら彼女に乞われ、オーランドはそれ以上強く拒絶できなかった。重ねられた唇に目を閉じる。それが過ちのはじまりだったと気付けずに。

 これはふたりの秘密だと、オーランドは勝手に思っていた。そんなこともあったと、いつの日かほろ苦く思えるような出来事になるのだと。

 しかし彼女の方は違った。オーランドと愛し合ったと打ち明け、それを盾に破談するつもりだったようだ。

 責任をとってほしい。オーランドの妻にしてほしいと迫られて困惑した。

 彼女が本当にオーランドを愛していたのか。それとも、スペンサー家の妻に収まることが目当てだったのかは分からない。

「オーランド様もわたしのことを愛しているでしょう?」と怒ったように同意を求める彼女は、優しい表情でピアノを弾く横顔とはまるで違った。したたかな一面に心が冷めていくのを感じた。

 ――オーランドに事実を確認したスペンサー伯爵は、息子の手の届かないところでこの件を処理した。

 軽率な行いは問題になったが、若い二人の過ちを嫁ぎ先は赦した。赦した上でスペンサー家との交流は絶たれた。相手はじゅうぶん寛大で、大人で、当然の対応をとったのだ。

 オーランドは責任をとる術も覚悟もない子供だった。

 抱きたいと思うほど彼女に思い入れがあったわけではなかったが、年相応の性欲もあったし、絆されて流されてしまったというのが相応しい言い訳だろう。馬鹿なことをしたと思う。自分にとっても彼女にとっても、綺麗な思い出にすらなれない過ちだ。



 懺悔をするように言葉を吐き出したオーランドは、「それ以来、自堕落な生活に身を落としました」と話を結んだ。

 利用される前に、自分が利用し返す。そういう風にしか交際できなくなったと。

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