仮面舞踏会を騒がせる謎の令嬢の正体は、伯爵家に勤める地味でさえない家庭教師です
13、俺のことを嫌っている貴女だから
 そうだったの、とリコリスは声に出さずに驚き、そして沈黙した。

 チェルシーが言っていた「兄が変わってしまった理由」というのはおそらくこの出来事がきっかけなのかもしれない。

「貴女に声をかけたのもはじめは遊び半分でした。でも、あなたは俺が聞いていた噂とは随分違った」
「……あなたから見たら、わたしが遊び慣れていない女だとすぐにわかったでしょう? 面倒事になるとは思わなかったの?」

 その家庭教師のように責任をとってくれと迫るような女だったら……、とふつうは警戒するはずだ。

「いえ。俺に対して冷たくするのが……嬉しくて」
「……冷たくされるのが好きなの?」
「変態扱いしないでくれ。俺のことを嫌っている貴女だから、俺は安心してあなたのことを好きでいられたという意味です」
「だったら、わたしが一度でもあなたにしなだれかかったら、あなたの恋は冷めるのかしら?」

 手に入らないから欲しくなる。
 手に入ってしまえば、オーランドはバイオレットへの興味をなくすかもしれない。

「……試してみても構いませんか?」

 オーランドに手を取られる。
 試す、という意味がわからないほど子どもではない。

 だめだと言うべきか。好きにすればと言うべきか。

 握られた手はリコリスが拒めばすぐに振りほどけてしまう力だ。でも……。

 そんな迷いを見抜いたように、オーランドはゆっくりとした動作でリコリスに口づけた。

「……っ……」

 苦しかった。
 合わせた唇からこぼれる吐息も、リコリスの背に回された腕も。抱かれる腕に力を込められ、ベルガモットとムスクの官能的な香りがオーランドからふわりと漂う。その香りに酔うことができないから、ただ、苦しい。

 仮面を外せばすべてが終わる。

 家庭教師の職をクビになることよりも、オーランドが失望した顔を見るのが怖い。

 こんな風に求めてくれたオーランドが、仮面を外したリコリスに冷たい視線を向けることを想像すると――

 リコリスは腕を突っ張り、オーランドの胸を押して身体を離した。

「……ごめんなさい……」

 キスなどしてはいけなかった。

 こんなことをすれば、ますますこじれるだけだ。

 現にオーランドは、手に入れて興味をなくすどころか、余計にバイオレットに執着しているように見える。

 リコリスも――オーランドのことが嫌いと言えなくなってきていた。

 複数の女性と関係を持っていたことは褒められたことではないし、いくら過去に嫌な目にあったからといって遊び歩いていたのはどうかと思う。

 けれど、彼はバイオレットに恋をして態度を改めたし、心配してくれたことも、今の口づけも、遊び半分だとは思いたくなかった。

「……少しくらい、ほだされてくれてはくれませんか」

 ほだされてしまっている。だから、だめなの。
 このままオーランドと接していたら、オーランドのことを好きになってしまう。

 外は雨が降り出したらしく、ぱらぱらと雨粒が窓に当たる音が鮮明に聞こえた。

 リコリスは立ち上がる。

「わたしはあなたの想いに応えることはできないんです。次にあなたに会っても、わたしはあなたと話すことは何もありませんから」
「っ、待ってください」
「ごめんなさい。……心配して下さってありがとうございました」

 さよなら、と微笑み、リコリスは足早に支配人室に向かう。
 ……オーランドは追いかけてはこなかった。

 ◇

 週末、リコリスは自宅へと帰っていた。

 ワイアット家の一角にはリコリスが世話をしているハーブ園がある。

 ハーブは虫や日照りにも強いため、育てるのも大して手がかからない。強く、たくましい薬草たちは鉢植えをこぼれ、年々その領地を拡大しつつあった。

 留守がちだったリコリスは雑草を抜いて手入れをし、お茶にするためのハーブをいくつか摘む。カモミールにセージにバジル。それから「リコリス」。

 ――リコリスの名前は父がつけたのだ。
 紫色の花をつけるハーブで、根の部分に抗酸化作用があり喉にいい。それに、とても甘い。

 摘んだハーブを軽く水で洗って紐で縛り、ワイアット家の窓辺に吊るす。来週帰ってくる頃には乾燥しているだろう。

 そうしたら使いやすく砕き、瓶に詰めたり、お茶用にブレンドしたりする。リコリスお手製のハーブはご近所の奥様方からも評判だった。

 これがリコリスの日常だ。

 エトランジェに行く前まではこんなごく平凡な暮らしをしていた。

 仕事に行けば可愛い生徒たちがいて、家に帰れば心安らぐ香りのハーブ園がある。そこには心乱されることのない穏やかな生活があり、それで十分幸せのはずなのだ。

 辻馬車が玄関先に止まった。父が帰ってきたのだ。

「ただいま、リコリス」
「おかえりなさい、父さま。今日は随分と早いのね」
「たまたま仕事が早く終わったからね、ほら、お土産だ」
「わあ! 美味しそうなアップルパイ! 待っててね、すぐにお茶を淹れるわ」

 お湯を沸かしている間にササッと部屋を片付け、リコリスは父とのティータイムを楽しんだ。父はニコニコ顔で「どうだい、家庭教師の仕事のほうは」と訊ねてくる。マイペースでリコリスのことは叔母に任せきりの父だが、家に帰ってくるときはこうしてリコリスの話を聞いてくれる。

 ……もちろん、父はリコリスが夜な夜なダンスホールに顔を出しているなんて知らない。

 真面目に伯爵家に勤めていると思っているし、安心してロクサーヌに預けているのだ。

「チェルシー様もターニャ様もお変わりないわ。相変わらずサボるのはお上手だけど……、最近はお庭の植物にも興味を持ってくれているの」
「そうか。ふふ、リコリスが熱心に喋るから聞かざるを得ないのかな?」
「まあ、そんなことないわ。前よりは興味を持ってくれているとは思うし……。多分」
「ははは、そうか。楽しくやっているようならそれでいいんだ」

 笑う父がリコリスのブレンドしたハーブティーを口にする。

 リコリスも父が買ってきたアップルパイにフォークを入れた。パイの切り口から、甘く煮たリンゴが皿に落ちる。

 伯爵邸で出される見た目にも美しいケーキも美味しいが、素朴で優しいパイはリコリスの心をほっと和ませた。早くに母を亡くしているリコリスにとっては、父がよく買ってきてくれるアップルパイが「懐かしい家庭の味」だ。母の手料理を食べているかのような安心感がある。

 このパイ、自分でも作れるかしら。そんなことを思うたび、リコリスはちらつく『結婚』の文字から目を背けていた。

 もともと洒落っ気もなく、草花を愛でるのに忙しかった。そこへ、家庭教師の仕事や、叔母にそそのかされて始まった夜の生活……。この数か月はリコリスの短い人生の中でも、色々なことがぎゅっと詰まっていた。

「ねーえ、父さま。……わたしもそろそろ、結婚を考えないといけないわよね……?」

 そんなことを口にすると、父が驚いたように噎せた。

「い、いや、うん、そうだな。お前も年頃だし、だ、誰かいい人でも見つかったのかい」

「やだ。縁談を持ちかけられたわけじゃないから落ち着いて。一般論よ。家庭教師の仕事は楽しいけれど、そろそろ父様のことを安心させないといけないかな、って」
「……リコリスの人生だ。父さんのことは心配しなくてもいいから、お前がやりたいことをしなさい。仕事が楽しいなら続ければいいし、嫌なことがあったらちゃんと相談にのるから」
「うん。ありがとう、父さま」

 こんな風にのんびりした父だから、ロクサーヌは少しでもリコリスに恋愛に興味を持たせようとエトランジェに引っ張り出したのかもしれない。

「…………もしかして、オーランド君と何かあったのかい?」
< 13 / 25 >

この作品をシェア

pagetop