「あら、あちらにいるのはオーランドお兄さまではなくて?」

 チェルシーが指差した裏手の門から、男女が腕を絡めながら歩いてくる。
 女性の方は見知らぬ美女で、豊満な胸元を男性の腕にぎゅっと押し付けていた。

 そんなあからさまなアピールにも涼しい顔をしている隣の男が、この伯爵家のご長男、オーランド・スペンサーだ。

「お兄さま!」
「あっ、ターニャお嬢さまっ」

 兄の姿にターニャがぱっと駆け出す。リコリスは慌てて後を追った。

 オーランドの視線が妹を捉え、そしておさげ髪のリコリスを見て眉根を寄せた。

「ターニャ。今は勉強の時間じゃなかったのか?」
「お勉強の時間よ? リコリスにお花の名前を教えてもらっていたの」
「ふうん。そこの家庭教師の仕事は、草花の名前を覚えさせることだったのか?」
「……申し訳ありません、オーランド様」

 頭を下げたリコリスにオーランドが冷たい目を向けた。

 青みがかった髪に、同じく濃い藍色のちょっと冷たそうな瞳。
 背はすらりと高いが、ひょろ長いわけではなく、筋肉質の均整のとれた体躯。

 軍人のようにクールな印象のオーランドは、社交界でも有名な女たらしだ。
 女たらしと言ってもオーランドの方から女性を口説いて回るわけではない。女性の方が彼を放っておかないのだ。

 オーランドのほうも来るもの拒まず。同時に女性と付き合うなんて当たり前。飽きたらポイ捨て――なんて使用人たちの間でも周知されている。

 今もこうして女性と二人でいるということは、これから屋敷でお楽しみなのだろう。

 オーランドにべったりくっついている女性はリコリスの頭から爪先まで――地味なお下げ髪と、化粧っ気のない顔。詰襟の野暮ったいドレス――を見て、小馬鹿にしたようにクスリと笑った。

「行きましょ、オーランド様?」
「ああ」

 女性のきつい香水の匂いがその場に残る。
 ターニャは「あーあ、久しぶりに遊んでもらおうと思ったのに」と唇を尖らせた。

「ターニャったら。ああいう時は邪魔しちゃだめよ」
「ああいう時って?」
「だから、……その、お兄さまが女の人と一緒にいるときよ」

 チェルシーが顔を赤らめながら忠告する。一回りほど年の離れた兄がなんと噂されているか、薄々気がついているのだろう。

「ふうん? じゃ、リコリスとお兄さまが一緒にいるときも邪魔してはダメなの?」
「リコリスは別よ。だってお兄さま、リコリスのこといじめるんだもの。わたしたちが助けてあげなくちゃ」
「いえ、別にいじめられてるわけではないと思うんですが……」
「それならどうしてお兄さまはあんなに冷たい態度をリコリスにとるの?」

 少女たちの純粋な優しさが地味にリコリスの心に突き刺さる。

 なぜ冷たく当たられているのか。リコリスに心当たりは全くない。顔を合わせた当初からオーランドはああいう態度だった。

 多分、オーランドにとっては自分にしなだれかかってくるような女が『相手をする価値のある女』で、地味な家庭教師は道ばたの石ころ程度にしか認知していないのではないだろうか。

 つまらない女が知識だけつけて、男のように仕事をしているのが気に入らないのか、たいしたことのない身分の女だからどうでもいいと思っているのか。それとも、

「そりゃ、リコリス先生がお兄さまの好みじゃないからよ」

 チェルシーがズバッとトドメを刺す。

 ……別にオーランドとどうこうなりたいなんてこれっぽっちも思っていないが(こっちだってあんな遊び人願い下げだ!)女として魅力がないと判断されているのは少々むかつく。

 もしこれが、オーランド好みの色気たっぷりのセクシー系美女だったりしたら早々に手を出すに違いない。

 リコリスが家庭教師に採用されたのも、絶対にオーランドと間違いが起こりそうにないと判断されたからではないかと思っている。

「ま、まあいいじゃありませんか。わたしの仕事はチェルシー様とターニャ様の家庭教師。オーランド様がわたしのことを嫌いでも、別に気にしませんし」
「えー、せっかくだから、皆で仲良くできたらいいのに」
「そうねぇ。今度、お兄さまを誘ってピクニックにでも行ってみる?」

 オーランドは絶対来ないだろう。
 あの人が似合うのは青空の下より、シャンデリアの輝くパーティー会場。あるいは乱れたベッドの上。

 だが、楽しそうにピクニックの計画をたてる姉妹たちにそんなことは言えず、リコリスは話を合わせて微笑んでおいた。


 ◇


 仕事を終えたリコリスは、伯爵邸を出ると叔母の住む男爵家へと真っ直ぐ向かう。

 寒い冬の間はともかく、春も半ばを過ぎればゆっくりと町を歩くのも楽しいものだ。

 男爵家までは辻馬車を使えば二十分ほど、早足で歩けば一時間かからない。しっかり身体を動かして、伯爵家で頂いてきたお茶とお菓子を消化する。

 リコリスの自宅は、この街にある大学に近い場所にある。

 だが、父は一度没頭すると寝食を忘れるたちのため、大学にある自身の研究室のソファで夜を明かすことがしばしばだった。母も既に他界しており、リコリスは一人娘のため、帰ってくるのかこないのかわからない父を待ちながら家に残しておくのは物騒だ。

 そう父に進言したのは叔母のロクサーヌで、週の大半はこちらの屋敷で世話になっている。平日は伯爵家との往復がしやすいので男爵家へ、週末は父が帰ってくるので自宅へ、といった形だ。

 が、男爵家で世話になっている理由はそれだけではなく……。

「じゃーん! 見てちょうだい!」

 リコリスが到着するなり、叔母のロクサーヌは玄関で赤いドレスを見せびらかした。

 四十も半ばを過ぎているロクサーヌだが、うきうきと弾むような足取りは少女のように軽い。

「やっと仕立て上がった新作よー! この間のはちょっと少女趣味だったから、今日はうんと大人っぽい感じにしましょ」

 リコリスは手をとられ、ロクサーヌの部屋に連行される。

 新作だというドレスは、かなり大胆に胸元と背中があいていた。うっ、とリコリスはそのドレスを見て腰が引ける。

「叔母さま、これはちょっと……胸元が」
「大丈夫よ! 寄せて上げればちゃーんと仕上がるから」

 ね、とロクサーヌが振り返ると、三人のメイドが心得ているとばかりに「はい」とにっこり微笑む。このメイドもロクサーヌとグルだ。

 リコリスとロクサーヌと、三人のメイド。叔母の秘密の遊び仲間だ。

「奥さま、髪型はどうされます?」
「今日は上に結い上げちゃいましょ!」
「ではイヤリングはこちらの大粒のルビーはどうでしょう」
「あら、素敵」

 リコリスそっちのけできゃっきゃと盛り上がっている。彼女たちにとってのリコリスは着せ替え人形だ。はあ、とため息をついてお下げ髪をほどく。

 鏡の中に映るのは地味で平凡な家庭教師の少女。しかし、ロクサーヌとメイドの手によって魔法をかけられ(ドレスアップして)、仮面をつければ、謎めいた令嬢・バイオレットに変わる。