エリート脳外科医は契約妻を甘く溶かしてじっくり攻める
「文くん、お休みなのにいろいろありがとう。おかげでほとんど終わった」
「ミイの荷物思った以上に少なかったもんな。あ、一応ひとつ部屋を渡したけど、それ以外も好きに使っていいから」
「うん。ありがとう。じゃあ私、部屋の荷物を……」
「あ、ミイ」

 そそくさとリビングを出ようとしたら名前を呼ばれ、振り返る。文くんがなにかを差し出しているのに気づき、視線を落とした。
 それは婚姻届。

 驚愕のあまり絶句していると、文くんが言う。

「両親たちは俺たちで決めろって言ってたけど、元々ミイのためのことだし、ミイが必要と思ったらこれ出していいから」

 無言でそっと手に取った婚姻届は、『夫になる人』の欄はすでに記入・捺印済み。

 実は私たちの両親から、入籍については、してほしいけど当人に任せると言われていた。
 そこは正直強引に迫られなくてよかったと思っていた。

 私は文くんとなら……って気持ちがあるけれど、彼は違う。妹みたいな私への情で本当に結婚までさせられないから。
 
 それなのに、わざわざ文くんの方からこんなものを手渡してくるなんて。
 用意周到なのは文くんらしいけど……。

「文くん、どうして……?」
「ん?」
「普通じゃ考えられないこの状況を受け入れたりとか、こういう大事なものを私に預けるとか……本当はどう思っているの?」

 幼なじみの子守りの延長で……慈善活動の感覚でいるんじゃないの? 冷静に自分の気持ちに向き合ったら、拒否したくなるんじゃないのかな。

「どう、って。初めに言った通りだよ。ミイが困ってるなら、これくらい別に」
「でも、これは違うよね? 色々と残るんだよ? もしも将来……本当に結婚したい人が現れたら……。その人になんて説明するの?」

 聞いていて自分がつらい。しかし、ここで逃げてしまったら、私も文くんもきっと後悔する。
 俯いたまま、婚姻届を彼へ押しやる。

「そうなった時に考えるよ。大体、それはミイにも同じことが言えるだろう?」
「わ、私は親が持って来ようとした縁談から逃げるためだったから」
「俺も同じ。それでいいじゃん」

 文くんは口角を上げて返すと同時に、再び婚姻届を私の手に握らせた。

 私は彼をジッと見続ける。数秒して、文くんは観念した様子で口を開いた。

「余裕がないんだよ。誰かとプライベート上で信頼関係を構築するまでの。器用な人間なら仕事と両方うまくできるんだろうけど、正直結婚相手はそこまで欲してない。今は仕事だけでいい」

 彼が他の女性を選ばないと知ってホッとするのと同時に、自分も選ばれなかったということだと気付き、複雑な感情が溢れる。

「もうこの話は終わり。引っ越し作業疲れただろ? 夜はなんか食べに行こうか」

 瞬時に表情や空気を切り替えた文くんを見て、もう話の続きはできなかった。

「じゃー、焼肉屋さん。キムチと一緒にサンチュで巻いて食べたい」
「いいね。俺も焼肉久しぶり」

 ふたりで笑い合うこの感じは、すごく居心地がいい。

 だけど今ばかりは、心の奥底で言葉にならない寂寥感を抱かずにはいられなかった。
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