グリーゼのために ~登山家グリーゼとピアノ講師サラ・バーンズの恋愛~【短編】

第8話 ラジオライブ


「ねえ、だれ? ブラックサバスなんて書いたのは」

 木目ピアノの上に設置したマイクに向かって話す。お客さんから笑い声がどっとこぼれた。往年のヘビーメタルだ。

 カウンターのイスに座っている巨漢の男が、隠れるようにくるっと背を向けた。骨董屋のエドね、こんなリクエストしたのは。

 ラジオとネットでの配信を始めて、言われたのが「MCをもっと多く!」だった。そういうのは苦手だと思ってたけど、人間って慣れてくるもので今では楽しい。

「次いくわよっ!」

 わたしは次のリクエストの紙を見る。今日も、お店は満員だった。

「ラフマニノフ!」

 テーブル席の男性が「自分だ」と手を挙げた。「超技巧派」とよく言われるラフマニノフを書いたのは、思ったより若い男性だった。試合観戦のあとなのか、メジャーリーグのチーム・ユニフォームを着ている。

「この人の曲って、わたしの指の長さだと完成度が低くなる。それでもいい?」

 ユニフォームの男の子はうなずいた。

「わかった。心を込めて弾くわね」

 ユニフォーム男は、嬉しそうにもう一度うなずいた。

 ラジオと動画配信、それを使ったライブは反響がそこそこいいらしい。それより、お店に足を運んでくれる人が増えた。

 店内の一角に作ったミキサーブースでは、フレッドとミックがパソコンやもろもろの機材をいじっている。そのフレッドが手を振り、店内にある時計を指した。そうか、そろそろ時間なのね。

 マイクに口を近づける。

「ごめん、みんな。今日はここから15分ほど、ライブ・ニュースを挟むの。スクリーンを設置してもらったから、楽しんでね」

 店の奥に設置したグランドピアノの正反対、表の通りに面したガラス戸の壁にスクリーンを吊してあった。

 プロジェクターのスイッチが入ったようで、スクリーンが光り始めた。出てきた映像に、店内の人が息をのむ。

 恐ろしいほどの雪の急斜面。ところどころには大きな岩が顔を出している。

『グリーゼさん、グリーゼさん、聞こえますか?』

 女性の声が入った。これはラジオ局が雇ったアナウンサーだ。

『はい、聞こえます』
『それでは、ここから頂上までの実況をライブニュースとしてお伝えいたします。グリーゼ・ロジャーさんは……』

 グリーゼの経歴が語られ始めた。そう、これはゴジュンバカンだ。彼の頭に付けているミニカメラからの映像。

 けっきょく、あれから彼に出会える機会はなかった。遠征前ということで、彼のほうが忙しくラジオへの出演もかなわなかった。

 それでも、さすがフレッドというべきかしら。フレッドの会社は彼のスポンサーのひとつとなり、登頂の直前からライブ配信をするという計画を立てた。

 頂上へのアタックは、天候などによって時間は決められない。その時にラジオ局も動画チャンネルも一旦中断し、ライブニュースとして流す予定だった。

 皮肉にも、それがわたしの番組の時間帯になるとは。

 カメラが動いた。近くの山脈を映す。

『では、あれがヒマラヤですね』
『そうです。ヒマラヤ山脈のひとつが、このゴジュンバカンになります』

 カメラはまた動き、ゴジュンバカンの頂上を映した。

『それでは、登ろうと思います』

 映像は揺れだし、雪の地面を映す。そうか、登りだしたら人が見るのは足下だ。

 延々と足下の映像を流すのだろうか? そう思っていたらカメラの角度が変わり、また頂上を映した。カメラが揺れて見づらいが、一歩一歩と頂上に近づいているのがわかる。

『ゴジュンバカンの標高はいくつでしょうか」
『ええと、ゴジュンバカンは三つの峰がありまして……」

 歩きながらしゃべるからか、息が切れている。

『ぼくが登るのは7806メートルです』
『ほかは何メートルですか?』
『ええと……』

 それは、今、彼に聞くことかしら。アナウンサーが資料でも読み上げれば済むと思うけど。

『すいません、憶えてないです』
『息が苦しそうですね、大丈夫ですか?』
『……はい……ここは……空気が薄いので』

 前に進む映像が止まった。それでもカメラは揺れている。肩で息をしているのだと思う。

『天候のほうはどうでしょうか?』

 それも、今聞くことだろうか? 晴れているのは、映像を見てもわかる。

 前にまた進みだした。歩き始めたようだ。

『グリーゼさん、天候はどうでしょうか?』
『……はい。とても……いいです』
『天候には恵まれているようです。よかったですね。では、グリーゼさんの今日までの旅程を振り返ってみましょう。カトマンズに到着したのが』

 アナウンサーは、今日までの記録を話し始めた。そして「旅程」と言った。これは旅なのだろうか。

 ミキサーブースのフレッドとミックを見る。ふたりが渋い顔をして何かを話していた。

「あっ」と店内のお客さんが声をあげた。あわててスクリーンを見る。映像は、ぐっと地面に近づいていた。転倒? それともカメラ?

『グリーゼさん、グリーゼさん! どうされましたか?』
『……少し……水を飲みます』

 よかった。転倒ではなく、しゃがんだのね。

身体(からだ)のコンディションはいかがでしょうか?』

 カメラが揺れている。荒い息も聞こえ始めた。

『グリーゼさん、グリーゼさん、コンディションはいかがでしょうか?』
『……少し……昨日からよくありませんが……大丈夫です』
『下山して、一番最初にやりたいことなど、ありますか?』

 聞いてられない! わたしはマイクに口を近づけた。

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