「フレッド」

 急にわたしがマイクで声を発したので、お店のお客さんまでが振り返った。フレッドもびっくりしてこっちを向いている。

「ここから、彼に話せる?」

 となりのミックが頭を抱えた。となると難しいのか。わたしはミキサーブースに駆け寄った。

「フレッド、彼女はグリーゼを邪魔してるわ。わたしが話せない?」

 今日はキャップ帽をかぶってないフレッドが顔をしかめた。

「アナウンサーがまずいとは思うけど、ここからとなると回線の切り替えがなあ」

 フレッドはミックに振り返った。PCの画面を見てるミックがうなずく。

「やれないことはない、けど、今からやっても一時間以上は……」

 ミックはキーボードをパチパチと打ちながら答えた。

「なに、トラブル?」

 フレッドの会社の人かと思ったら、さっきテーブル席で見たユニフォーム姿の客だった。

「あー、サラが、ここから話したいって言うんだけど、回線が違って」
「そりゃいいね、このアナウンサーはクソだよ。手伝おうか?」

 お客さんは、ずかずかとミキサーブースに入っていき、ミックが座っているPC画面をのぞき込んだ。

「あっ、これか。キャサリンのほうが得意かも。キャサリン!」

 一緒のテーブルにいた女性が立ち上がり、こちらに来る。

「なになに、どうしたの?」

 キャサリンと呼ばれた小柄な女性がくると同時に、ほかのお客さんも集まってきた。

 気付けば、ミキサーブースには8人ぐらい人が取り囲んでいた。さらに自分の鞄から手持ちのノートパソコンをだして打っている人までいる。あきれた。シアトルがITの会社だらけって、ほんとなのね。

 フレッドがうなずいた。できるのね。わたしは急いでピアノへともどった。

 10分か15分。そのぐらいの時間は経った。グリーゼはまだ動いてない。アナウンサーは、時間稼ぎのつもりかヒマラヤの遭難を描いた映画の話をしていた。ほんとに最悪ね!

「グリーゼ?」

 マイクに向かって言った。

『……サラ?』

 荒い息づかいをしながら、グリーゼが返した。わたしと二度しかしゃべってないのに、すぐに気付いた。

「しゃべらなくていいから、ゆっくり休んで」

 カメラの映像が縦に動いた。うなずいたのだろう。

『ちょっと、あなた、横から!』

 アナウンサーの声はそこで途切れた。ミキサーブースを見ると、なぜか、さきほどキャサリンと呼ばれたエンジニアの女性が、PCの前でわたしに親指を向けている。

「ラジオと配信を聞いている人へ。わたしはサラ・バーンズ。さっきまでピアノ弾いてたからわかるわよね。ここからは、みんなで彼を見守って。無理はしないで欲しい。頂上に向かってもいいし、降りてもいいしね」

 店内のお客さんが、うんうんとうなずくのが見えた。

『……いや、元気が出た。行くよ』

 カメラの映像が上がった。そして歩き始める。

 粗い息づかい。一歩一歩は遅い。でも、それを皆で見守った。

 5分、いや10分かも。固唾をのんでスクリーンを見た。お店のお客さんも、ずっとそれを見続けている。お客さんのなかには両手を組んで祈るように見つめる人もいた。

 グリーゼがまた止まった。粗い息。標高は7000メートルと聞いた。どれほど息をしても、酸素は充分には入らないと思う。

『……ひっかけようとか、そういうんじゃなくて』

 とうとつに、彼が言葉を発した。

「しゃべらくていいの。自分のペースで登って」
『……きみのCDを買ったのは、もうずいぶん前で……』

 お客さんが、一斉にわたしを振り返った。やだ、その話するの?

「グリーゼ! いま配信」

 配信中よ! その言葉を言ったのに、マイクは拾わなかった。ミキサーブースを見ると、キャサリンがミキサーに手をやっている。もう、なんでマイクの音を切るのよ! それにキャサリン、部外者でしょ!

 カメラが動きだす。彼がまた歩き始めた。

『……ジャケットに映るサラ。黒いドレスだった。それが目の前にいる。それなら声をかけるだろう?……』

 また足が止まった。ほんとうに苦しそうだ。

『そうか、帰ったらしたいこと……』

 彼が大きく息を吸った。

『サラ、帰ったら、一度だけでもいい。ディナーに一緒に行かないか?』

 また皆がわたしを振り返った。ミキサーブースのキャサリンが、わたしを指している。ラジオで言うキューのサインだ。

「わかった。わかったから、ぜったい帰ってきてね」

 皆が立ち上がって拍手する。もう!

『ぜったい帰るよ』

 彼が歩き始める。

 それから5分ほど歩き続け、彼はゴジュンバカンの頂上に立った。

『少し休んで、それから帰るよ』

 カメラの映像が少し下がった。岩の上にでも腰をかけたようだ。

 スクリーンに映される映像は、素晴らしいものだった。これが頂上の景色。青空の下に、ヒマラヤ山脈の山々が光っていた。

 急にフレッドがあらわれた。マイクに口を近づける。

「休んでる間に、一曲弾いてもらおう。リクエストはあるかい?」
『ああ、彼女がOKなら……』
「いいわよ」

 彼が何を言おうとしてるのかは、すぐにわかった。

「ラジオと配信を聞いてる人、それにお店のみんな。すごく簡単な曲だけど、これを弾かせてね」

 マイクに向かって言い、ピアノ椅子に座るとフレッドがまた横からマイクに向かって言った。

「曲名は?」

 フレッドがにやっと笑う。もう。

「ベートーベンに失礼だけど、今日だけは少し名前を変えるわね」
「だと思った!」

 恥ずかしくて、ちょっとうつむいてしまった。意を決してマイクに口を近づける。

「グリーゼのために」

 わたしは目を閉じて、あの最初のフレーズを弾き始めた……。




 終


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