曇天は月を隠し、地上の明かりを受けてぼんやりと白んでいる。

今にも雪が降り出しそうな寒さの中、椿(つばき)は弔事にも使われる色無地に外套を羽織り、男の住むマンションを訪れた。

玄関に通されてすぐさま、脇に抱えていた外套を捨て置くと、着物が汚れることも気にせずその場で膝を折った。

「申し訳ございませんでした!」

声を張り上げ、床に手をつく。大理石のひやりとした感触が触れた指先から伝わってくる。

椿にとっては人生初の土下座。

この程度で許されるのなら安いものだ。両親も喜んでくれると、椿は自分に言い聞かせる。

謝罪の内容は姉の不義。

才色兼備と謳われた姉は、この〝財界の若き帝王〟と呼ばれる名家の長男と婚約関係にあった。

しかし、姉はあろうことか婚約者を放り出し、別の男と駆け落ちして姿をくらましてしまった。

いずれにせよ、椿本人にとってこの土下座は不条理極まりないものだ。

「顔を上げなさい」

冷淡な声が振ってくる。ゆっくりと視線を持ち上げてみると、男は腕を組みながら冷ややかにこちらを見下ろしていた。