腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
アパートに帰る日向子と左右之助が一緒に美芳を出る背中を見送って、芙蓉は深いため息をついた。
「なんかあるわ」
暖簾をくぐって店に戻ると、閉店間際の店には森山しか残っていない。森山の方も落ち着かない様子で芙蓉を見上げた。

「店に引き留めるなんて驚いたよ」
「引き留めたのは日向子や。あの状況で帰れなんて言われへんやろ」
「二人一緒に帰してよかったの」
「日向子に泊まれ言うたし、左右之助にタクシー呼ぶとも言ったんやけど。酔い覚ましに歩く言うから。それ以上は無理やったわ」
森山が何度か唇を惑わせて、やがて口を開いた。
「左右之助が『あのこと』を知ってるなんてことないよね?」

「知ってたからってなんやの」
剣呑な雰囲気に森山が口を閉ざす。
「御苑屋の若旦那が知っていたとして、なんで日向子に近づく必要があるの」
「そりゃ分からないけど、わざわざ若旦那自ら財布を届けにくるなんておかしいじゃないか」
眉間をほぐすように芙蓉が指で押す。
「確かにただの親切心とは思えへん……嫌な予感するわ」

芙蓉の手を取って、森山が隣に座らせた。
「だから俺と結婚して、日向子ちゃんを俺の娘にしてしまえって何度も言ってるのに」
「森山さんを巻き込むわけにはいかへんよ」
切なそうにため息をついて、森山は手酌でお酒を注いだ。
「俺は巻き込まれたいんだけどね……」
「女将!」
板場から、中居頭の騒々しい声がする。すぐに彼女がホールに飛び込んできた。

「なんやの、騒々しい。まだお客さんいはるのよ」
「申し訳ありません。でも、これを」
彼女が差し出したのはネットニュースの画面を映したスマホだった。
「え……」
『歌舞伎俳優・人間国宝十二代松川左右十郎が死去』
無機質な文字が、左右十郎の最大の当たり役、弁慶の写真とともに写し出されていた。
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