腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
「お店に帰すべきだったのかもしれませんが、あまり可愛らしいので、帰したくなくなりました」
ん?今のってどういう意味?
「……ご迷惑をおかけしました」
一部の言葉に引っかかるものがあったけれど、小さく頭を下げる。
「この状況で謝るなんて、少々不粋ですね」
左右之助さんがそっと寝具に手をかける。顔を覆っているものが取り払われると、今にも唇が触れそうな近さだった。
「……っ」
心臓がドキッと痛いほど大きな音を立てる。

左右之助さんの手が私の頬を包み込んだ。
「僕の本名は喜熨斗玄兎(きのしげんと)と言います」
濡れて少し乱れた前髪の奥の瞳が、妙に扇情的で色っぽい。蕩けるような視線で顔を覗き込まれて、どんどんドキドキが大きくなる。
「本名で呼んでいただけませんか」
「私が……ですか?」
「ええ」

憧れの人にこの距離で……熱い視線を注がれて、誰が逆らえるだろう。
「玄兎……さん」
「いいものですね。好意を抱いた女性に、本来の名前を呼ばれるというのは」
「好意」
生真面目に言われて、どう応えていいか分からない。
「左右之助さんみたいな人が、私みたいなごく普通の女に……」
「玄兎」
「あ、玄兎……さん」
心底嬉しそうに、玄兎さんが微笑む。あまりにも綺麗な笑顔に魅入られてしまった。
求められてる──

この状況が嬉しいというより何より、まるで頭がついてこなかった。
「あ」
ゆっくりと彼の手が首筋へと動き出す。ほんの少し指先が掠めただけで、触れられた部分が火傷をしたように熱を持った。熱は痺れになって身体の奥を疼かせる。甘美な誘惑に、すぐに飲み込まれてしまいそうだ。
「待って下さい」
彼の手を止める。左右之助……玄兎さんは素敵だ。いまだにホテルで二人きりだなんて信じられない。ましてや彼の方が私を帰したくないだなんて。
「あの、お水飲みたいんですけど」
それでも──ある意味初対面の男性と一夜を過ごすなんて。いくら酔っているとはいえ、大人の女として早計すぎるのではないか。
「……いいですよ」

玄兎さんは身体を起こし、私の頭をくしゃりと撫でた。
あっさりとベッドを降りた彼の背中を見送りながら、こっそりため息をつく。危うく流されてしまうところだった。ミニバーのほうへと向かう玄兎さんの姿を、じっと見つめる。
やっぱり、かっこいいな。
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