腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
今日の演目の一節を暗唱して声を張り上げた。勧進帳は源頼朝の怒りを買った義経一行が北陸を通って奥州へ逃げる道中、安宅の関での物語だ。

武蔵坊弁慶を先頭に、焼失した東大寺再建のため、勧進という寄付を募っている山伏だと称して関所を通過しようとする。
富樫(とがし)という役人に詮議を受けて弁慶がうまく言い抜けるものの、強力(ごうりき)に扮した義経が怪しまれてしまうのだ。
弁慶は主君を手下に見せかけるために、ちゃんと歩かないから怪しまれるのだと折檻する。主君に手を挙げるなど、当時は絶対にあってはならないことだった。

「あの子、弁慶のセリフ覚えてるの?」
「ハハハ、いいぞ、もっとやれ〜」
没頭すると、次第に周りの声は聞こえなくなって、恥ずかしさも消え失せていく。当時の常識に反して、主君を折檻するときの弁慶もこんな気持ちだったのかもしれない。

「総じてこのほどより判官殿よと怪しめらるるは、おのれが業のつたなき故なり。思えばにっくし。憎し、憎し。いで物見せん」
安宅の関を通りたいという思いを込めて、弁慶のセリフを張り上げた。勧進帳は特に好きな演目で、小さい頃はお母さんが経営する料亭でおふざけ半分にお客さんに披露したものだ。お客さんの中には歌舞伎役者もいたから、子どもの勧進帳ごっこを面白がって聞いてくれたっけ。

「何を騒いでいるんです」
涼風のような凛とした声に、周囲の騒めきがぴたりと収まった。
「あ!」
松川左右之助!
すらりと伸びた長身で着こなす衣装は弁慶のものだ。拵え(こしらえ)という身支度の途中のようだけど、騒ぎを聞きつけて出てきたようだった。憧れの人が目の前にいる夢のような瞬間に、激しい動悸が襲ってくる。

明るい月がスポットライトのように、涼やかなその姿をくっきりと照らし出していた。

「あの、こちらのお客様がスリの被害に遭われて、チケットとお財布を盗まれたようでして」
「だからさっさと指定席にするか、電子決済にしなさいと言ったのに」
薄い雲が月にかかって風で流れ、舞台を背景に苦言を述べる彼だけに、再びさーっと月の光が差し込んだ。
これだけでもお芝居の一幕みたいで、ドキドキが止まらない。
あれ……でも、左右之助のお役って義経だよね?どうして弁慶の衣装なんだろう。
「問題はお席ですね」
「左右之助様、本当に今日はどこも空きがないんです」
「わざわざここまで足を運んでくださったのに、納得していただけるはずがないでしょう」

左右之助がしばらく考えて、はたと何かを思いついたように顔を上げた。
「よかったらこちらへどうぞ」
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