腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
丁寧に手を差し出す所作だけでも息を呑むほど美しい。
「いいんですか?」
「お客様をがっかりさせたままお帰しするわけには参りません」
左右之助がゆっくり背中を向けて私を誘導した。案内されたお席は──

「もしかして、関係者席!?」
お舞台に一番近い桟敷席には、テレビや雑誌で見覚えのある歌舞伎関係者の顔ばかりが並んでいる。桟敷の端にはお世話役のような人がついていた。左右之助が私を案内すると、すぐにその一人が近づいてくる。
「ようこそ、いらっしゃいませ。膝掛けをお使いになりますか?」
「は、はい……!」
客席でこんな風にお世話をされるなんて初めてのことで、どうしていいのか分からない。
「大事なお客様ですから、頼みましたよ」
「かしこまりました、若旦那」
「では、こちらでごゆっくり」
「ありがとうございました」
優雅な仕草で頭を下げると、左右之助はすぐに舞台裏手に消えていく。

姿が見えなくなっても、私は誰もいなくなった舞台裏をしばらくぼーっと眺めていた。
ああ、神様……左右之助自ら席を用意して、案内してくれるだなんて!
しかも『大事なお客様』とまで言ってくれた。左右之助の涼やかな声が耳の中に甘く響く。もう私は今夜、死んでしまうんじゃないだろうか。

死ぬなら、お舞台を見てから死にたい。

「あんた、やるねえ」
放心状態で席に座ると、隣は杖をついた年配の男性だった。綺麗に整えられた白髪は老いよりも貫禄を感じさせる。少しも着崩さない和服姿も板についていた。ご贔屓筋という熱心な歌舞伎ファンかもしれない。
「入場列で弁慶を演じていたの、あんただろう」
舞台への熱意をアピールするのに、あれ以外の方法が思いつかなくて咄嗟に行動に出てしまった。冷静になれば恥さらしもいいところで、どっと冷や汗が噴き出してくる。

「お騒がせして申し訳ありません」
「いやいや、なかなかの見ものだったよ。左右之助がびっくりして出て行ったさ」
視線の方を見ると舞台裏の入口は衝立と布で仕切られた簡単な作りで、私の声は丸聞こえだったのかもしれない。穴があったら入りたい。穴がないなら掘ってでも入りたい……!
「相当好きだね?」
「御苑屋(みそのや)の追っかけなんです。今日は御苑屋一門が勢揃いですもんね、楽しみですね!」
男性は気の毒そうに私を見た。
「勢揃いとはいかないのさ」

「え!?」
教えてくれたのと同時に、代役発表のアナウンスが流れた。左右十郎は降板、弁慶は左右之助が代役。左右之助が演じるはずだった義経は、また別の若手が務める。
「ここだけの話、左右十郎の体調が悪いらしい」
客席がざわつき始める。ボソボソと小声ではあるけれど『チケット代返せ』なんて品のない言葉も聞こえてきた。こんな雰囲気の中、大役の弁慶を左右十郎の代わりに務めるなんて、左右之助は大丈夫なのかな?
祈るように胸の前で両手を組むと、清元(きよもと)さんの唄と共に舞台が幕を開けた。
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